深い森の中、一人の女神が座り込み、花を摘んでいる。
長く美しい金髪は日差しをあびてきらきらと光を放ち、澄んだ緑色の瞳は優しく瞬いていた。
赤や白、黄色に薄紅、水色と、様々な色彩とその姿で楽しませてくれる花たちに微笑み、彼女は歌う。
鳥が鳴くかのような優しい歌声に、花すらも聞き入っているようだった。
「ねえ、アリウム。あなたも来てごらんなさいよ。花たちの美しいこと! だから私、春って大好きなの」
歌うのをやめた彼女は、そう言ってそばに佇んでいた青年に手招きをする。
アリウムと呼ばれた青年も、年若き神だった。
彼女の瞳と同じ色の草を優しく踏みながら歩み寄ると、白銀の長髪を肩に流して、アリウムは笑う。
「いいや、花よりも君のほうがもっと美しいよ、カレンジュラ。それに君の歌を聞いているほうが、花を見るよりも楽しいんだ」
愛しげに彼女を見つめる紫の瞳に、女神カレンジュラは戸惑ったように視線をそらす。
「何を言っているの、いやね。冗談ばかり」
細い指で野原に咲く花々を摘んでいきながら、カレンジュラはアリウムの眼差しから逃れるように立ち上がった。
色とりどりの小さな花たちが、カレンジュラを追うように風に揺れる。
「カレンジュラ、なぜ逃げる? 冗談なんかじゃない。僕の心は知っているはずだ」
すり抜けようとした彼女の手首を捉えて、切なげにカレンジュラの髪に触れ、口付ける。
カレンジュラは体を震わせたが、熱情のあふれる紫の瞳に捕らわれたように動かなかった。
アリウムは華奢な彼女の体を抱きしめようと腕を伸ばす。
けれどカレンジュラは愛しげに触れようとする手から、遠ざかるように体を引いた。
「――いけない。私はもう、明日にはこの森を出ていく身よ」
静かに、それでも強い調子で言い、見上げてくるカレンジュラの視線を、アリウムは苦しげに受け止める。
「わかってる……ルピナスに嫁ぐって言うんだろう。あんな奴!」
「……優しい人だわ」
憎々しげに吐き捨てたアリウムの声に、カレンジュラが答える。
その緑の瞳に悲しい光が宿っているのを、アリウムは見逃さずに唇を噛んだ。
「――大神殿のえらい奴だってだけだろう。いや、だからこそ君の父上が逆らえなかった。君だって本当は――」
耐えられずに言い募るアリウムから瞳をそらし、カレンジュラは両手で耳をふさいだ。
「やめて!」
鋭い一言にアリウムは言葉を止める。
立ち尽くす彼に背を向け、カレンジュラは言った。
「……やめて。言ったって、もうどうにもならないことだわ」
「……カレンジュラ!」
そのまま立ち去ろうとするカレンジュラの儚げな背中を、アリウムが呼び止める。
「嫌だ! 君を他の奴に渡すなんて耐えられない! 君が好きなんだ、愛している! もうずっと、ずっと前から君だけを――」
ついに抑えきれなくなった感情を爆発させて、アリウムが叫ぶ。
しかしその声からも逃げるように、カレンジュラは駆けていく。
摘み集めた花束で顔を覆って、涙が誰にも見えぬように隠し通して、駆けていく。
アリウムの紫色の瞳は、深い絶望に覆われようとしていた。
「どうしても手に入れたいのかい?」
足元から突然聞こえたかすれ声に、アリウムは弾かれたように顔を上げる。
どうにもならない苦しみに、一人膝を折っていた時のことだった。
黒い蛇が、彼の足元に静かに鎌首をもたげていた。
「――もちろん。彼女を失うぐらいなら、死んだほうがましだ」
心底からそう言ったアリウムに、蛇がしゅうしゅうとまるで笑っているような声を出す。
「それなら簡単なことさ。心のままに、手に入れればいい。夜明け前に彼女を連れ去り、遠くへ行ってしまえばいいのさ。誰にも見つからない遠くへね」
老女のようなしわがれ声は、まさしく黒い蛇の口から聞こえていた。
アリウムはその蛇の正体を知っていた。
誰かの迷いにつけこみ、惑わせようと現れる悪魔――黒きニゲラと呼ばれるもの。
しかしそんなことは今の彼にはどうでもよかった。
蛇の言った考えに、みるみるうちに瞳を明るくしていく。
「――連れ去る……そうだ。そうすればいい」
一体なぜ今までそんな簡単なことに気づかなかったのだろう、と呟き、アリウムは立ち上がる。
ニゲラの声に耳を傾けた者には破滅が待っている――その恐ろしい伝説を、知らないはずはなかったというのに。
「そうだ、連れ去ってしまえ。ルピナスが何だというのだ。大神殿に混乱をもたらせ! 自らの愛を選べ! 愛しい者をその手に!」
ひどく低いような、高いような、不思議な声の大群がまるで怒涛のようにアリウムを襲う。
黒い蛇は彼の足に巻きつき、体中を這い、いつの間にか消えていた。
「……愛しい者をこの手に」
呟き、再び開いた紫の瞳は、不思議なほどに澄み、そしてどこか狂気に似た光を秘めていたことを、アリウムは知る由もなかったのだ。
夜明け前、カレンジュラの眠る神殿にアリウムは忍び込んでいた。
白き大地の女神が統べる、聖なる場所。清涼な空気が流れる、冷たい石の空間。
幾人もの女神たちが休む中、目指すカレンジュラは一番奥の一室にいた。
嫁いでいく女神だけが着ることを許される、純白の衣装に身を包んで。
前夜に汚れなき体でこの衣装を着て、夫となる神のもとへ向かうのがしきたりだということは、アリウムもよく知っていた。
その白い色はカレンジュラによく似合うだろうと、自分の花嫁となってくれる姿を夢に描いたものだった。
しかし彼女は今、他の男のためにこの衣装を着ている。
そのことに火のついたように嫉妬心が燃え上がる。
「――カレンジュラ」
決意を込めて、耳元でその名を呼んだ。
一瞬身じろぎしたカレンジュラは、うっすらと緑の瞳を開いたかと思うと、目の前に佇むアリウムに驚き、声なき悲鳴を上げた。
「アリウム! どうして……なぜこんなところへ……!」
無意識なのか、首を何度も横に振りながら、カレンジュラは混乱した様子でアリウムを見つめる。
彼女の驚愕も、戸惑いも、何もかもが自分の行動を喜んでいるのだと、アリウムは思った。
「なぜってもちろん、君を迎えに来たんだよ、カレンジュラ」
自信に満ちた瞳で微笑み、アリウムは言う。
「迎えに、ですって――?」
顔色を変えたカレンジュラの白い頬に、アリウムはそっと手を伸ばす。
今度こそ触れようとした温もりは、また彼から離れていった。
「何を言っているの、アリウム! あなた、正気なの? ルピナスに――大神殿の神々に逆らうことは、私たちにとっては死も同じ。私たちだけではないわ、お父様も、お母様だって――」
何をされるかわからないのだから、と必死で訴えるカレンジュラの声にもアリウムは耳を貸さなかった。否、貸せなかったのだ。
姿こそ見えないものの、先ほどの黒い蛇がまだ巻きついているようだった。
手にも足にも、首元にまで。
熱く燃えたぎるような自分の恋心が、何十倍にも、何百倍にもなって彼自身を焼いているようにすら感じる。
「もう何もかもどうでもいい。カレンジュラ、君を手に入れること以外には――」
そう、誰か他人の声が言ったような気がした。
アリウムの言葉にカレンジュラは悲痛なほどに真っ青になっていた。
「……アリウム、あなた……!」
何かを言おうとするカレンジュラの体ごと抱き上げ、連れて行く。
叫び、泣く彼女の声もどこか遠く、甘い囁きにしか聞こえない。
アリウムは窓の外に待たせていた天馬に跨り、そのまま神殿を後にしたのだった。
小さく瞬く星々と、白い月がまだほの暗い世界を照らしている。
追っ手がすぐさま放たれるも、ニゲラの力を借りたアリウムの天馬は、彼らの追いつけぬほどの速さで空を駆けた。
「アリウム、アリウム待って! お願い、思いとどまってちょうだい! こんなのだめよ――間違ってるわ!」
何度も何度も彼を説得しようとするカレンジュラを、アリウムはただ嬉しそうに見つめるのみだった。
「ああ――カレンジュラ。こうして君をこの手にする日を、どんなに夢見たことか」
うっとりと彼女の髪に顔を埋めるアリウムに、カレンジュラはもう何を言っても無駄であると悟ったように、静かになった。
風にはためく彼女の純白の衣装、汚れなき乙女の証明。
他の男に渡さずにすんだことを、アリウムは心から喜んでいた。
自らの白銀の髪を、潤んだ瞳でカレンジュラが見つめていたことなど知らずに。
「……ねえ、アリウム」
そうしてしばらく走った頃、カレンジュラが彼を呼んだ。
静か過ぎるその声に秘められた想いに気づかずに、アリウムは微笑む。
「なんだい、カレンジュラ」
「見て――下に広がる大地を。あの美しい草木と、花々を」
遠い地上をも見透かす瞳で、カレンジュラは言った。
「私たちの暮らす場所は、あんな風に美しい場所ならいいと、ずっと夢見ていたわ」
雲の隙間から垣間見える緑の大地を指し示して、微笑む彼女。
愛らしいカレンジュラが微笑んでくれるのなら、とアリウムは天馬を操った。
「それならば、あそこで暮らそう――もう誰にも邪魔されることはない。ずっと僕たち、二人きりだ……」
やっと手に入れた安息の地と愛しい人。
アリウムは心からほっとしたようにカレンジュラを緑芽吹く大地へと下ろす。草原をそっと踏みしめ、カレンジュラは笑った。
「ええ、そうね……」
震える声で答えた彼女を、万感の想いを込めて抱きしめる。
月光がきらめく彼女の金髪を引き立たせる。今まで見たどの瞬間よりも、美しいカレンジュラだとアリウムは満足げに微笑む。
「私ね、アリウム。あなたの白銀の髪が好きだったわ。その美しい色に似た純白の花嫁衣裳を、あなたのために着る日を本当に夢見ていたのよ――」
優しい優しい声で、カレンジュラが告げる。
信じられないほどの幸福に、アリウムは輝くカレンジュラの髪を撫でた。
その刹那、だった。
一瞬ゆるんだアリウムの腕から抜け出したカレンジュラが、月光に手を差し伸べる。
静かに流れた涙が、大地に落ちる。
途端、彼女の体が吸い込まれるように緑の大地へと消えていくのだ。
「カレンジュラ!」
何が起こったのか、あまりに突然のことで目を瞠るしかできないアリウムの前で、カレンジュラは消えた。
長い金の髪が春の夜風に舞ったのを見たような気がして――次の瞬間には、しゅるり、と白いものだけが落ちていた。
駆け寄り、拾い上げたものは純白の花嫁衣裳。
アリウムの手からも零れ落ちていく白い布は、一瞬のうちに風に舞い上がり、地面から伸びてきた木にからまり、そしてたくさんの花になった。
真っ白な、汚れのない色をしたその花は、まるで数十もの小鳥たちが一斉にその木に舞い降りたかのようだった。
「カレンジュラ、カレンジュラ――どこへ行ったんだ!」
呪縛から解き放たれたように声をあげ、必死で捜し回るアリウムの前に、再びカレンジュラの姿が現れることはなかった。
――アリウム。
ふと呼ばれたような気がして、見上げた先には小鳥のような白い花。
「……まさか、カレンジュラ――!」
嘘だ、と悪夢でも見ているかのような顔で駆け寄ったアリウムが、硬い木の幹に触れる。
その瞬間、優しい歌声が響いた。
愛しい、愛しいカレンジュラの――澄んだ歌声。
――許して、アリウム。私、お父様やお母様を裏切ることはできない。けれどあなたを……これほどに愛してくれるあなたを置いて、嫁ぐこともできない。
だから私は、と声はアリウムの耳元で囁いた。
白銀の髪の青年は、全ての力が抜け落ちたかのように、泣き崩れた。
*
深い森の中、老人は語る。
長い長い白髪と髭は皺の刻まれた顔を覆い、若かりし頃の面影を思い描くこともできぬほど。
けれどそんな姿を恐れることもない子供らが老人の膝元に集まり、優しいしわがれ声に耳を傾けていた。
鳥たちも麗らかな春を謳歌するかのように歌い、彼らのそばを飛び回った。
語り終えた老人に、子供らはほうっと息をつく。
「悲しいお話――ねえ、それでアリウムはどうなったの?」
一人の少女が、自分のことのように表情を翳らせて訊ねた。
「さあさな。愛する人を失って嘆き悲しんだとは言われておるが、その後の彼の行く末を知る者は、誰もおらんそうじゃよ」
「わたしは、花になったカレンジュラのそばでずっと暮らしたと思うわ」
「ううん、きっと悲しくて旅に出たのよ」
「違うわよ、大神殿の神様に捕まって、罰せられたんだわ。それともニゲラの呪いで死んでしまったのかも――」
あれやこれやと好き勝手なことを言う少女たちに、老人は笑った。
「ねえ、長老様、もっとお話して」
「そうよ、そうよ。もっと聞きたい!」
たちまち先ほどの話など忘れたかのようにせがむ少女たちを、少し年長の少年が止める。
「こら、ディモルフォセカ。長老様がお疲れだろ? 今日はもうこれでおしまいだ」
「だって……」
なだめられても唇を尖らせる少女を、老人がそっと撫でた。
「また明日おいで。こんな老いぼれの話でよければ、いくらでも話してやるとも」
「うん! わかった。じゃあ長老様、また明日ね!」
元気に駆けていく少女の後姿を見送り、老人は少年に顔を向けた。
「ラクスパー、君は面白かったかね?」
少女たちより年長だとはいえ、本当は誰よりも熱心に耳を傾けていたから、ラクスパーは気恥ずかしそうにしながらも頷く。
すると、皺くちゃの顔で優しく笑った老人が、彼に言った。
「好きな子のことは、大切にしてやりなさい。そうしないと、アリウムのように後悔することになるぞ?」
冗談めかして囁かれ、ラクスパーは驚いたように頬を染める。
しかし静かな老人の表情をしばらく見つめると、素直に頷き、少女たちの後を追った。
ディモルフォセカに並んで歩き出す彼を、老人は優しく見守っていた。
子供たちが森から出て行くと、老人は黙って立ち上がり、ゆっくりゆっくりと草を踏みしめ、歩いていく。
森の高い木々が開けた場所へやってくると、老人はやわらかな緑の大地に腰を下ろした。
そばには一本の大きな木が立っていて、根元には白い大きな花びらが散っている。
「今年もたくさん咲いたな」
一人呟き、老人は見上げる。
たくさんの白い小鳥のような花々が、暖かな風に黙って体をまかせている。
「君は――いつまでも変わらないのか。僕一人を置いて、そうやって安らかに微笑むのか」
皺だらけの手で、木の幹にそっと触れて、老人は言う。
答えを求めているようでもあり、全てを悟っているかのようでもあった。
「女神の慈悲など、いらないというのに――君のいない永遠など、無意味でしかないというのに」
呟き、苦しげに吐息をもらす老人の、老いた手がいつしか滑らかな若者のそれに変わっていく。
白く、長い髪は白銀に、皺に埋もれ、見えもしなかった瞳は紫の美しい色を見せる。
「こうして誰かと時を過ごさなければ、狂ってしまいそうなほどの長い時を――愛する君を失って、気が遠くなるほどの悲しみを永遠に味わい続けるのが、僕の罪に対する答えなのか」
――違う。カレンジュラのせいではない。
問いながらも、自分でわかっていた。
白き大地の女神は、愛し子を奪った罪を許しはしなかった。
神々の世界から永遠に追放し、無限の時をこの地上で過ごせと。
花になった愛しい人を見守り続けるのが、お前のせめてもの罪滅ぼしだと。
そう言っているのだ。
もはや、自分が神であったことなど夢のようで、忘れてしまいそうになる。
そのたび、本当の姿を思い出させ、こうして戒めるのだろう。
――全ては、自分の罪。
あの日ニゲラの声に負けた、自分自身の弱き心のせいなのだ。
――ああ、けれど……僕はこうして永遠に君と一緒だ。
紫の瞳から、涙が零れ落ちる。
「愛しているよ……カレンジュラ」
静かに触れた幹は冷たく、決して何も伝えてはこない。
けれど確かに白い花たちの歌声を、聞いたような気がした。
END