千の涙、万の誓い

  


 
 
 既にどれくらいの日々を過ごしたのか、一体いつまでこうしていなければいけないのか、闇に包まれたこの国では、それすらもわからない。
 両腕と体中を縛り上げた、薔薇の(つる)は、フェリアラの肌を赤く染めはしないものの、無数の傷跡を生み、彼女の体力を奪っていた。
 もう抵抗する気力すら残っていないことを、自分でもわかっている。
 それでもこうして滑るように闇の中から現れた、美しい悪魔には、そんな弱みは絶対に見せないと、いつものように、彼の黒い瞳を睨みつけるのだった。
「そうしている姿も嫌いではないが……あまり強情を続けると、美しい肌に傷が増えるだけだぞ? まったく……そなたの精神力には屈服させられる」
 言葉とは裏腹に、逃がしてやるつもりなど毛頭ないことが、この男の面白がるような瞳からは読み取れる。
 深紅にも見える、黒い瞳――ここへ連れて来られてから、もう幾度、この心の奥底まで支配しそうなほどの、強い瞳にさらされていることか。
 天上の国で、突然現れた恐ろしいこの悪魔は、自分を妻として貰い受けると、勝手な言い分でさらって行った。抵抗もできずに容易くさらわれてしまったことで、少しでも力のある天使だと、自分を誇りに思っていたことすら腹立たしく、この闇の牢獄で、悲しいほどに無力な自分が、許せなかった。
 毎日を泣いて過ごしたのも、今では遠い記憶にすらなっている。白い翼は、闇の中では何の力も発揮できず、時折照らす、月の光によってのみ、その聖なる輝きを垣間見せるのみだった。

「黙っているのが、そなたの唯一の抵抗というわけか? さえずっていたほうが、可愛げもあったものを」
 無言を通すフェリアラを眺めながら、彼はつまらなさそうに呟いた。
「貴方となんて、話をするのも汚らわしいわ」
 どうしてそこで、言葉を返してしまったのか――思わず口をついて出た一言に、フェリアラ自身、驚いていた。
 彼女の声を聞いて、意外なように、立ち上がった彼の長い黒髪が、風もない闇に揺れる。
「ルサイオスだ。何度も私の名を告げたであろう。一度でいいから――そう呼んでくれ」
 深紅の闇を思わせる瞳に、自分の姿が映っている。切なげにすら見えた一瞬の眼差しに、フェリアラは耐え切れないように、顔を背けた。
「やめて――! 貴方の名なんて、知る必要もないわ。私は、絶対に……天上の国へ、帰ってみせるのだから!」
 青い瞳に映る、全ての闇を拒絶するかのように、彼女は固く瞳を閉じる。
 その姿を見て、ルサイオスは、軽くため息をつき、薔薇の蔓で封じられた、美しい翼にそっと触れた。白い、清らかな羽根の一枚が、彼の褐色の皮膚を傷つける。
 まるで、最後の抵抗のように、フェリアラを保護する力が働いたのだと、彼女は喜んだ。まだ、天上の国は、自分を見捨ててはいないのだ。
 彼女の心を読み取ったかのように、ルサイオスは少し笑うと、漆黒の血が流れた、自分の指をそっと舌で舐める。
 その仕草に、なぜか感じた胸の鼓動は――ほんの少しの、罪悪感なのか、それとも、自分をこんな目に合わせている彼に、わずかでも、復讐できた喜びなのか。
 フェリアラが瞳を逸らした瞬間、ルサイオスは、また闇のいずこかへ、溶けるように消えてしまうのだった。


 
 月が、青白く浮かび上がっている。
 相変わらず、自分を縛る棘の蔓にも、いいかげん慣れてしまったことが、自分でも恐ろしくなった頃――フェリアラの耳に、鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。
 嫌になるほどの静寂が包んでいた、この牢獄で、初めて耳にした、音らしい音。
 まさか、と期待したフェリアラの心は、現れたいつもの青年を見て、あっという間にしぼんでいった。
「なんだ、つれない顔だな。せっかく、そなたへの土産を持ってきてやったというのに」
 珍しく明るい顔で、ルサイオスが笑ったことに、思わず視線を向けてしまったことを、すぐに後悔した。
 今にも触れそうなほど近くで、彼に覗き込まれて、フェリアラは居心地の悪さを抑えきれずに口を開いた。
「土産なんて、いらないわ」
 最近、どうもこうして言葉を返してしまう。これでは、まるで、会話ではないか。
 そんな彼女の悔しさに気づいているのか、ルサイオスは嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、そう言うな。こんな闇でも、一人きりよりはましであろう」
 彼の言葉の意味を測りかねて、瞳を上げたフェリアラに、ルサイオスが差し出したもの――それは、漆黒の(からす)だった。
 闇に溶け込んでしまいそうなほどに黒い全身、その暗い色に似合わぬような、丸く可愛らしい二つの瞳が、彼女を見つめている。小首を傾げたような、その姿が、少し愛らしく見えた。
「ようやく、笑ったな」
 彼の言葉で、自分が微笑んでしまっていたことに気づいて、フェリアラはあわてて笑顔を消した。
「わ、笑ってなどいないわ。こんなもので、気を引こうだなんて――火の悪魔が、聞いてあきれるわね」
 精一杯の皮肉を込めて、返したつもりの言葉にも、ルサイオスは気分を害した様子もなく、優しく微笑んですらみせる。
「火の悪魔も、恋に落ちれば、ただの男だ。心惹かれる娘の笑顔を見るためなら、何でもするというもの」
 その甘くすら感じる微笑みが、フェリアラの心を騒がせる。嫌だ、落ち着かない――こんな気分は、おかしいではないか。
「恋だなんて……そんなこと、簡単に言わないで! どうせ、新しい玩具でも見つけたつもりで、楽しんでいるだけのくせに……」
 自分は天使なのだ。それが、悪魔に恋を囁かれているだなんて、しかも、それに狼狽しているなんて――そんなことは許せない。
 唇を噛んで、横を向いたフェリアラの耳に、悲しげなため息が聞こえてくる。
「そなたは――私のことを、そんな風に見ているのか。私の言葉を、信じてもくれぬのか……?」
 あまりにも切なげに響いたその低音に、思わず振り向いてしまいそうになるのを、すんでのところで堪えた。
 いけない、彼の口車に乗っては……自分を戒めている張本人を、信じるだなんて、もってのほかなのだから。
 闇を彩る唯一の色彩である、自らの金色の髪を、フェリアラは唇を引き結んで見つめる。静けさの中、ばさりと羽を動かした烏が、その存在を主張した。
 フェリアラの沈黙で、あきらめたかのように、ルサイオスは、そっと烏を闇に放して、黒衣を翻した。
「今夜は、これで退散することにしよう。そなたの苦しみを、これが少しでも癒してくれることを願う」
 烏だけを残して姿を消す、その直前、一瞬だけ見えた彼の横顔が、ひどく淋しげに見えて、フェリアラは落ち着かないように、瞳をさまよわせた。
 心の奥が、なぜか騒ぐ。まるで、傷ついたような顔をして、そんなの――。
「ずるいじゃない……」
 思わず、一人きりの空間に、呟いてしまう。頼りなく、暗闇にこぼれ出た自分の声に、余計に動揺した。
 自分を閉じ込めて、辛い目にあわせておきながら――こんな風に、優しくしたりして。そんな行動は、悪魔らしくもない。
 悪魔なら悪魔らしく、高慢に、高圧的に、自分を従わせようとするだけにしておくべきだ。優しい言葉や、笑顔なんて、似合いもしない。
 こんな自分に、本当に恋焦がれてでもいるかのような、あんな瞳――反則だ。
 絶対に、騙されたりしない。そう、何度も決めたことを、もう一度思い出すように、フェリアラは心の中で繰り返した。
 いつの間にか現れた黒い木に、落ち着いたかのようにとまって、翼をつくろう烏を見つめながら、フェリアラは知らず、ため息をつくのだった。




 月は幾度も満ち欠けを繰り返し、フェリアラにとって、ただ一つの外界とのつながりとなっていた。
 あれから、ルサイオスは時折ふと現れたかと思えば、またすぐに消えていなくなったり、この牢獄に囚われて以来珍しく、一人残される時間が増えていた。
「一体、何をしているのかしら。あの身勝手な男は……」
 ふと呟いてしまってから、カア、と高らかに鳴いた烏に目をやって、あわてたようにフェリアラは首を振った。
「違うわよ、アルネロス。別に気になってるとか、そんなんじゃないんだから」
 闇、という意味でフェリアラが名づけたその名前を、気に入っているのかどうか、漆黒の烏は、ただその瞳をしばたかせて、フェリアラを見つめているだけだ。
 こんなものいらない、と偉そうに言ってみたものの、孤独をまぎらわせるための、独り言の相手としては、結構役に立っているのだった。
「ただ……私をこんな風に縛り付けておいて、自分は遊びまわっているなんて――不公平だと思っただけよ」
 そうだ、不公平極まりない。こうやって放っておくくらいなら、自由にしてくれればいいのに。
「もう、飽きたのなら――帰してくれればいいのに……」
 なぜか暗い声音になったその言葉を、フェリアラは頭の中で繰り返す。
 飽きた――? もし、そうなら、かえって喜びたいくらいだ。悪魔の気まぐれなお遊びに振り回されて、縛り付けておかれるのは、もう真っ平なのだから。
 それなのに……なぜ、自分の心は沈んでいるのだろうか。あの深紅の瞳をしばらく見ていないことに、どこか物足りなさでも感じているかのようではないか。
「馬鹿な……冗談じゃないわ」
 あせったように呟いて、フェリアラは夜空に浮かぶ月を眺めた。いや、今が夜なのか、昼なのかもわからないけれど――そんな区別は、この闇の国にはないのだから。
 日の光が見たい。明るく、咲き乱れる花々、美しい泉、天使たちの笑い声――天上の国で、当たり前に過ごしてきた日々が、思い出せないほど、懐かしく思える。
 純白、ともいえるほどの、美しかった自分の白い衣装は、闇に染まりきってしまったかのように、その光も失ってしまった。
 もはや、動かすこともかなわない、自分の翼も、全てが、闇にのまれていくような、そんな恐ろしい感覚に襲われる。
 嫌だ――こんなところに、一人でいるなんて……時間の感覚すらないこの闇での孤独に、これ以上耐えられないと、忘れかけていた涙が込み上げてきた、その時。
 大きな、翼の羽ばたきが聞こえた。
「アルネロス――?」
 見やった先で、烏は素知らぬ顔をしている。いや、烏のものなんかではありえない。もっと、大きな何かの――。
 そこまで考えたフェリアラの前に、突如黒い翼をはためかせて降り立った、いや落ちてきたものがあった。
 大きな、大きな黒い鳥――それが、すぐに、長い黒髪の、見慣れた顔の悪魔へと姿を変えていく。
 息を呑んだフェリアラの、薔薇の檻の目の前に、ルサイオスは音を立てて倒れこんだ。いつもと違って、その顔には余裕が見えない。いや、それどころか、苦しみの跡すら見えた。
「――どうしたの、一体何が……」
 思わずかけてしまった言葉に、苦しげだった頬をわずかに持ち上げて、ルサイオスが微笑んだ。
「そなたが、心配してくれるとは――珍しいことも、あるもの、だな……」
 あきらかに笑顔を作りきれずに、ゆがんだその表情を見て、フェリアラは眉を吊り上げた。
「強がりを言っている場合なの? 苦しいなら苦しいと、そう素直に言えばいいじゃない!」
 フェリアラの言葉に、ルサイオスは深紅の瞳をわずかに上げて、彼女を見つめた。
「な……何よ」
 静かに、心の奥まで見通しそうなほどの眼差しに、思わずぶっきらぼうな問いを返す。ためらいつつも、なぜかその視線から逃げることはできなかった。
「その、優しさは――やはり、天使であるからこそ、なのか」
 少しかすれた、その声は、彼女に問いかけるものなのか、それとも、独り言なのかすら、判別しがたいものだった。
 唇の端に、笑みさえ浮かべて、ルサイオスは青い瞳から、目をそらして、息を吐いた。
「自分を閉じ込めた、この私さえ――そなたにとっては、その慈愛の対象だと……そういうことか?」
 今度ははっきりと質問に聞こえた、彼の言葉に、フェリアラは眉をひそめる。
「何を、言って――」
「それは――喜ぶべき、ことなのか……それとも、あくまで天使としての、優しさであるだけならば――かえって、酷なこと……っ」
 咳き込んだ彼の口元から、漆黒の血がほとばしるのが見えて、フェリアラは思わず体を動かしかけ、忘れかけていた薔薇の棘に無残にも阻まれた。
「私を、放して――そうすれば、何か手立てが……!」
 目の前で傷ついている存在を、見捨ててはおけない。確かにそれは、天使としての性分なのかもしれなかった。
 だとすれば、何だと言うのだろう。それでも、救わなければいけないと――救いたい、と、そう思う気持ちがあれば、いいのではないのか。
 苛立ち、棘の蔓を引こうとするフェリアラに、ルサイオスは苦笑すら、見せた。
「そなたを放すことはせぬ。そなたが天使であるのと同時に――私は、悪魔だ。助けると見せかけて、戒めを解いた途端、そなたが逃げぬという保証はないからな」
 どこか暗い色を秘めた、彼の微笑は、その身に宿した、深く、黒い闇の広がりを、フェリアラに見せつける。
 二人の間を分かつ、冷たく、果てしないほどの空気の違い。その温度差とでもいうべきものが、フェリアラの身をすくませた。
「ならば……勝手にするといいわ。貴方がこの場でのたれ死のうと、私には関係のないことですもの――!」
 言い捨てて、そっぽを向いたフェリアラの耳に、苦しげな笑いが届く。
 半身を起こし、闇の壁に体を預けたルサイオスが、自らの胸を押さえて、呼吸を整えているのが、わかる。
「残念ながら、まだ死ぬわけにはいかぬ――たとえ、怒った顔であろうと……そなたの顔を、もっと長く、見つめていたいからな」
 そんな言葉に、反応など見せてやるものか、と視線を正反対の方角へ、きつく固定させる。そんな自分の様子を、どんな目で見ているのか――ルサイオスの声は、ただ穏やかだった。
「大丈夫、これぐらい……少し休めば、すぐに治る。私としたことが、ロトスごときに、とんだ――失態を……」
 切れ切れに、呟かれた言葉は、最後まで紡がれることはなく、ふと見た先で、ルサイオスはいつの間にか、瞳を閉じ、ぐったりと壁にもたれていた。
 あせって目を凝らしたフェリアラは、その様子が、静かに眠りに落ちただけだとわかると、思わずほっとしたように息を吐いていた。
 そしてすぐさま、そんな自分に動揺する。これではまるで――彼の無事を願っているかのようではないか。
 そんな願いは、どれほどに酔狂なことであるか、自分でもわかるというのに。彼がどうなっても、自業自得とさえ言えるほどの仕打ちを受けておきながら、どうして――。
 彼の口から流れ出た、漆黒の血を見ただけで、胸が締め付けられる。苦しげだった表情が、少しずつ穏やかになっていく様子に、安堵を覚える。
 自分の心の動きが、天使であるゆえなのか、そう自問することすら拒否するように、フェリアラは首を振った。
「血の匂いは、嫌いなの――それだけよ」
 呟きは、闇へと滑り落ち、誰の耳にも入らずに消えていった。
 そう、それだけのことなのだ――自分に言い聞かせながら、いつの間にか青い瞳が追うのは、漆黒の青年の、眠る姿。
 いつもの偉そうな顔が嘘のような、少年のような寝顔に、フェリアラは知らず、表情を和らげる。そんな彼女を見つめるのは、一羽の烏のみだった。



 あの日、眠りとも呼べぬほどの、浅い眠りから覚めたフェリアラの前には、既にルサイオスはいなかった。
 自分の前で、無防備な寝顔を見せたことには、まるで覚えもないかのように、触れもせず、いつもの態度をすっかりと取り戻したルサイオスは、あいかわらず気まぐれに彼女と時を過ごしにやってくる。それまでと違うのは、例え短くても、会話のようなものが、成立するようになったことだった。
「ねえ、貴方――もしかして、天の兵たちに、追われているの?」
 ずっと気になっていた質問を繰り出したフェリアラに、ルサイオスは片眉を上げて、余裕のある微笑みを浮かべた。
「ああ、ロトスどものことか。あの日はたまたま、遅れを取ったが、心配は無用だ。あのような無力な者どもに、この私が捕まるはずはなかろう」
 この前、そのロトスにやられて、ぐったりとしていたのは誰なのだと、嫌味の一つでも返そうとして、フェリアラは口をつぐんだ。
 なぜだか、その微笑を前に、言い返す気が失せてしまったのだ。
「どうした、心配か? それとも――がっかりしたか? そなたにとっては、希望を奪われることだからな」
 機嫌がいいのか、重ねて問いかけるルサイオスに、フェリアラは肩をすくめて、そっぽを向いた。
「別に――ロトスなどに、元より期待もしていないわ。大体……天から堕ちた私を、あえて救おうとする存在があるのかさえ疑問だもの――」
 思わずもれた本音に、フェリアラ自身驚いた。どこかでずっと、期待はしていたはずなのに、同時にそんな可能性はないことも、わかっていながら、認めたくなかった。
 そんな気持ちを、自分で否定してしまうなんて。
 彼女の動揺に気づいているのか、いないのか、ルサイオスは黙って、見つめている。
「だからといって、私があきらめたなんて、思わないで! 私は自分自身の力で、絶対に天上の国へ帰ってみせるのだから」
 声を荒げてしまってから、フェリアラは頬が熱くなるのを感じていた。彼は何も言っていないのに、一人でむきになって――何をやっているのだろう。
 瞳を伏せる彼女を見つめたまま、ルサイオスはゆっくりと微笑んだ。その黒衣を音もなく滑らせて、いつの間にか近づいた彼は、フェリアラを縛る薔薇の棘をそっと撫でる。
「そうか――」
 ルサイオスは、静かな声でそう呟いて、褐色の手で、ゆるく波立った金の髪に、愛しげに触れた。
「な、何……」
 そんな風にされるのは初めてで、思わず身を引く。フェリアラの緊張すら楽しむかのように、その長い髪を手にとって、そっと口付けてみせる。
「や、やめて……!」
 体中に震えが走って、フェリアラは叫んだ。頬が熱い。胸の鼓動が激しくなる。そんな変化を、なぜかこの男には見破られたくなかった。
 彼女の心を見透かしたかのような眼差しは、一瞬だけ切なげに瞬いて、ゆっくりとそらされた。
「拒むことも、憎むことも、そなたの自由――怒りの声ですら、私には甘美な囁きにも聞こえる。私は、あきらめぬ――そなたを手に入れるまではな」
 自信すら垣間見せて、ルサイオスは囁いた。彼女には、選択肢などないのだと――改めてわからせるかのような、声音。
 その言葉に、熱く沸き立つようなこの気持ちは、彼への憎しみ。
 それでしかない。この心を占める、深紅の光は――憎悪でしかないのだ。
 唇を噛み締めながら、フェリアラは、そう思う。そう、思おうとしているのだと、そんな言葉が浮かんで、頭を振る。
 絶対に、許さない。絶対に、屈してはいけない。心に決めた言葉を、刻みつけるように呟いた。声にならない声は、既にこの場にいない背中に向けられたものなのか、自分に対してのものなのか、それさえも、どこか揺らいでいく気がして、フェリアラは苦しげに瞳を閉じるのだった。




 いつのまにか、ずっとこんな日々が続いていくような錯覚にとらわれはじめていた頃、変化は、突然にやってきた。いや、その綻びは、少しずつ見えていたのかもしれない。
 時折見せる、彼の淋しげな表情や、暗い瞳に、その色があったのだろう――しかし、フェリアラはその日まで気づくことはなかったのだ。
 自信と余裕に満ち溢れた彼の態度から、そんな前触れさえ、感じ取れなかったのだから。
 いつものように浮かんだ、青白い月を見上げていたフェリアラの前に、突然ルサイオスが現れた。
 まるで、どこかに隠れて、静かに、姿を現す時を待ってでもいたかのように、そっと現れた彼に、フェリアラは少し驚いた目を向けた。
「苦しいのだ――」
 いきなりかけられた言葉に、青い瞳が大きく広がる。
「どうしたの、また何か……」
 あったのかと、訊ねようとした彼女に、ルサイオスはふっと表情を和らげた。
「焦がれていた……ずっと、夢にまで望んだはずの存在を手に入れて、満足であるはずなのに――苦しい。
 時を重ねるほどに、共にいるほどに……苦しくて、たまらぬ」
 言葉の意味を、一瞬理解しかねて、フェリアラは口を開いたまま、言葉が出せずにいた。
 そんな彼女を、優しく見つめて、ルサイオスは、深紅の瞳をそっと伏せる。
「美しい、光の波のごとき、金の髪――透き通った、青い瞳、白く、滑らかな肌も、やわらかな翼も……何もかもが、この手の届く、距離にあるというのに。
 決して、触れられぬ……聖域のようで、近づけば近づくほど、この身に巣食う、穢れや、醜さがあらわになっていく気がする。
 やはり、悪魔が、天使を手に入れようとすることが――到底、無理なことだったのだろうか」
 何か幻でも見るかのように、ルサイオスは、広げた自分の手を食い入るように見ていた。褐色の指から伸びた、黒く、長い爪――最初は恐ろしく思えたそれが、なぜか弱々しくさえ見える。
「何を、言っているの……?」
 うまく働かない心より先に、言葉が出た。フェリアラの声に、ぼんやりと瞳を上げて、ルサイオスは彼女の姿を捉える。
「いや、既に言葉など、無用――もう、終わりの時は、来てしまったのだから」
 独り言のように呟いた彼の声――その声に反応したかのように、静かだった牢獄に、突然乾いたような音が響いた。
 何が起こったのか、一瞬わからなかった。何かが、全身から弾けたような感覚――途端、発せられた、白い光。あまりにも純粋な光の爆発に、闇に慣れた瞳が耐えられずに、悲鳴をあげるかのようだった。
 どれぐらいの時間が経ったのか、ようやく開けた青い瞳に映ったのは、弾け散った、蔓の残骸。
 自らを戒めていた、棘の檻が、嘘のように飛び散り、散乱していたのだ。
 自由になったのだ。そんな考えが浮かぶのに、かなりの時間がかかった。
 白く、清らかな光を放っているのが、自分の翼なのだとようやく気づく。見回した自分の腕に、無数にあった傷も、夢であったかのように消えている。
 そして、体の奥から、あふれてくる、力――懐かしい、その清浄な感覚に、フェリアラは、信じられない思いでいた。
「どう、して――?」
 出てきたのは、そんな言葉だった。
 まぶしそうに、眉を寄せて、視線をそらしていたルサイオスは、こともなさげに、笑みを見せる。
「解放されて、最初の言葉がそれか? もっと、喜んでみせたらどうだ」
 どこか乾いた、その笑みに、フェリアラは戸惑ったかのように、言葉を止めた。
「呪いは、解けた。そなたの勝ち、というわけだ」
 投げやりにも聞こえる、彼の説明に、納得が行かないように、フェリアラは詰め寄った。
「どういうことか、わかるように話せ、と言っているの! 私には、説明を受ける、権利があるはずよ」
 声を荒げた彼女を見つめて、ルサイオスは深い息を吐いて、感情の浮かばぬ瞳を上げた。
「そなたを縛り付けた、薔薇の蔓には――呪いをかけてあった。千日の間、そなたの力を奪い、この闇の国に縛り付けておく呪いだ。
 千の夜を迎えるまでの間に、そなたが私の意志に屈するか、千の夜を越えても、そなたが自分の心を守り、私を拒み続けるか、どちらかの場合でないと、解けぬものだった。
 結果がどう出たのか、言わずともわかるであろう」
 淋しげにすら見える、深紅の眼差しを向けられて、フェリアラは思わず目をそむける。
「今日が、その千日目だと、そういうことなの――?」
 何か、もっと他に言いたいことが、言わねばならないことがあるような気がしていたのに、言葉にできたのは、そんな問いだった。
「そういう、ことだ……」
 言うが否や、ずるりと闇の壁から滑り落ちるように、揺らいだルサイオスは、黒い床に、膝をついていた。
「そなたは、もう自由の身――天に帰るなり、私に復讐するなり、好きにするといい」
 力なき声で、そう告げた途端、倒れこんだルサイオスの姿に、フェリアラは息を呑んだ。
「なぜ――どうしたと言うの? なぜ、あなたが……」
 突然の出来事に、頭が混乱している。言葉もうまく出てこずに、それでもフェリアラは倒れた彼に駆け寄った。
 その身から、一気に生気が失われていくのが、今のフェリアラにはよく感じ取れる。なぜなのか、わからないけれど、ルサイオスの命が、奪われようとしていることだけはわかった。
「当然の報い、だとは思わぬのか……? 私など、消えてなくなればいいと、そう願わなかったはずはなかろう」
 自嘲のような影を含んだ、その笑みが、フェリアラにそっと向けられる。褐色の肌から、血の気が失われていく。
 息も荒く、ぐったりと床に身を預けたルサイオスを、大きく目を見開いたまま、フェリアラは見つめていた。自分の手が震えていることに気づいて、フェリアラは爪がくいこむほどに強く両手を握りしめる。何を言えばいいのか、わからない。否、自分が、何を感じているのかさえ、わからなかった。そんな彼女の表情を、ルサイオスは苦しそうに見上げた。
「心配するな。願うまでも、ない――私の命は、すぐに消える……」
 フェリアラの青い瞳に、何を見ているのか、ルサイオスは笑みすら浮かべて、そう呟いた。
「どう、して――?」
 ようやく口にした言葉は、か細く、今にも闇に消えそうなものだった。それでも、ルサイオスには届いたようで、自らの胸を押さえながら、静かに彼女を見つめ返す。
「そなたの力を、封じ込めるほどの呪いだ。それ相応の代償がなければ、成立しなかった――」
 かすれた彼の返答に、フェリアラは瞬き一つせず、ただ彼を見つめていた。
「その、代償が、貴方の命だと……?」
 フェリアラの問いに、ルサイオスは頷く。その深紅の瞳が、穏やかにすら見えて、フェリアラは凍っていたかのようだった心が、突然熱くなるのを感じた。
「なぜ、そんなことを……それほどに、自信があったとでも言うの? 私を手に入れるためだけに、自分の命まで懸けたとでも言うつもり――?」
 怒りにすら似た、彼女の反応に、深紅の瞳が驚いたように一瞬見開かれる。
 それでも自分の感情の爆発を、止めることができなかった。
「冗談ではないわ! 悪魔のくせに――そんな馬鹿げた呪い、話にならないじゃないの! 私を手に入れるためだけなら、他にどんな手段だってあったはずでしょう!
 大体、一目見ただけの私のために、そこまでするなんて……力あふれる火の悪魔が、聞いてあきれるわ。そんな愚かな、一か八かの賭けみたいな話……」
 そこまで言ってから、フェリアラは何かに気づいたかのように、言葉を止めた。
 彼女の心に閃いたものを、まるで察したかのような顔で、ルサイオスは呼吸を整えながら、彼女を見つめた。
「そう、これは賭けだった。いや……限りなく、勝算のない、愚かな賭けだということはわかっていた。
 それでもいいから、そなたを近くで見ていたかったのだ――たとえ、千の夜を越えるまででも」
 フェリアラは無言のまま、苦しげに紡がれる彼の言葉に聞き入っていた。その青い瞳が、何か遠くを見ているかのように、ぼやけていくことには気づかぬように、ルサイオスは続ける。
「けれど……千日の苦痛の間にも、そなたの心は気高く、美しいままだった。決して、闇に染まることはなく――私のどんな言葉にも、その意を曲げることもなかった。
 賭けは、そなたの勝ちだった――いや、最初から、負けることは、わかっていたのかも、しれないな……」
 どんな想いにかられているのか、苦しそうに微笑んで、彼は瞳を閉じた。
 いつでも力と自信に満ち溢れていた彼の姿が、嘘のように、ぐったりと倒れている。目の前のルサイオスに、フェリアラはぎりぎりのところで、近づけずにいた。
 青い瞳を見開いたまま、この光景が信じられないかのように、黙って立ち尽くしていたフェリアラは、ルサイオスが苦しげに心臓を抑えるのを見て、呪縛が解けたかのように、駆け寄って、膝をつく。
「違う……」
 ようやくこぼれた彼女の声に、ルサイオスはうっすらと瞳を開いた。
 その黒衣に、白い衣装が触れるほどに、近くに座った彼女を、深紅の瞳が、映した。
「そんなことが、聞きたいんじゃないわ」
 はっきりと、紡がれた自分の言葉に、フェリアラは驚きながらも、まるで何かに操られているかのように、続けずにはいられなかった。
「あなたは、私を、いつから、見ていたの――?」
 ゆっくりと訊ねたフェリアラに、一瞬瞳を見開いて、ルサイオスは観念したかのように、深く息を吐いた。
「もう、随分前――まだ、私が火の悪魔と呼ばれる前の、幼き頃だ」
 苦しげに胸を押さえながら、答えた彼に、フェリアラは青い瞳を瞬かせる。彼女の驚きに、ルサイオスはそっと微笑んだ。
「天上の国を覗き見すること、ロトスに捕まらずに帰ってくること……それは、まだ悪戯盛りだった私にとって、純粋な遊びに過ぎなかった。
 そんなある日、見かけたそなたの姿に、私の心は、すぐさま囚われてしまった。遠くから見つめるだけの日々に、我慢ができなかったのだ。
 そなたの力は、見るたびに清らかに、美しく育っていく――手の届かない存在になる前に、どうしても、この手に、と……」
 そこまで言って、耐え切れないように、ルサイオスは顔をゆがめて、自分の黒衣を掴んだ。
 呪いの力が、心臓を蝕んでいるのだと、既に言葉を発するのも困難なほどの痛みが、彼を襲っているのだと――フェリアラにも感じられる。
 うめき声を、かろうじてもらさないようにしているのがわかって、フェリアラは無意識に首を振っていた。
「なぜ――最初から、そう言わなかったの」
「悪魔が、天使にそのまま求愛したところで……聞き入れてもらえるはずはない。そうであろう」
「それは……」
 確かに、いきなり現れて想いをつげられたとしても、正気の沙汰とは思えないだろう。すぐに断られ、天上の国でそんな無茶なことをすれば、すぐさま捕まることは目に見えている。
 それはわかっても、フェリアラは、納得が行かないままだった。
 何かを言い返そうと思うのに、言葉が出てこない。
 それでも、フェリアラは、苦しげに眉を寄せ、瞳を閉じた彼のほうへ、おそるおそる、その手を伸ばした。
 あと少しで、触れそうだった手は、急に大きく響いたルサイオスのうめきに、怯えたように止まる。
 青白い月が隠れて、闇一色となった牢獄――その中で、静かに輝くフェリアラの翼。
 白く、淡い光に、一瞬焦がれるように、瞳を向けたルサイオスは、フェリアラのほうへ、褐色の手を伸ばす。その手が、今にも白い頬に触れそうになる、一歩手前で、力尽きたように、床に落ちた。
 息を呑んだフェリアラの前で、ルサイオスの命は、暗く深い闇に吸い込まれるように消えていく。
 深紅の、彼の輝きをなくして、急に暗くなったような空間の中、フェリアラは、耐えられないように頭を振っていた。
「……だめよ、そんなの――」
 震える声が、もれる。散乱していた、棘の蔓が、闇に溶けるように、一瞬で消えるのを見て、フェリアラは唇を噛み締めた。
「まだ――言ってやりたいことも、たくさんあるのよ……勝手に連れてきて、勝手に死ぬなんて、そんなの――許さないんだから!」
 叫んで、震える手で、ゆっくりと彼の黒衣に触れた。ずり落ちた手を、白い両手で、包むように掴んだ。
 初めて、触れた彼の肌は、悪魔だなんて、嘘のように滑らかで、まだ、温かかった。
 そう感じた途端に、目の前が揺らいだ。
 ぽたり、と落ちたのが、自分の涙であることすら、気づかなかった。
「――ルサイオス――!」
 そう、絞り出すように叫んだ彼女の声が、既に意味を失った、牢獄いっぱいに響いた。
 その瞬間、聞こえてきたのは、小さな羽ばたきの音。
 頭を上げて、忘れていた存在を目にする。
「アル、ネロス……?」
 すっかりと忘れていた烏が、大きく羽を動かして、フェリアラの元へ飛んできた。その愛らしい瞳を瞬かせ、アルネロスがとまったのは――黒衣の上。ちょうど、ルサイオスの心臓の位置だった。
「そう――彼の命は、まだ失われていない。まだ、この闇に、全て飲み込まれたわけじゃないわ」
 呟きながら、自分で自分の意図がわからなかった。
 それでも、次の瞬間には、両手を合わせていた。ルサイオスの心臓の位置に、両手をついて、そして瞳を閉じる。
 息を吸い込むと、自分の中に、聖なる力があふれ出してくるのがわかる。その力を全て一点に込めるかのように、フェリアラは一気に放出した。
 白い、圧倒的な光が、自分の翼から、全身から、熱さえ持って、放たれていく。そして、その光が向かう先は、ルサイオスの命の源――彼の、力を司る場所。
「お願い……!」
 純粋な願いと力を、ルサイオスの体へと注ぎきって、フェリアラは祈った。
 そして、ゆっくりと開いた彼女の瞳に映ったのは、生気を取り戻していく、ルサイオスの顔。瞳は閉じたままであるものの、呼吸を始め、心臓が再び脈を打ち始めているのが、わかった。
 彼の、深紅に似た黒髪も、褐色の肌も、以前の色へと変わっていく。命の危機の去った、ルサイオスの姿を見つめて、フェリアラは心から安堵したように、吐息をついた。





 永遠のようだった一瞬が過ぎ、隠れていた月が顔を出した。ふと仰ぎ見たフェリアラの前で、アルネロスが青白い月光に照らし出されていく。
 彼女の見守る中、その漆黒の羽は、降りそそぐ月光によって何かの力を得たかのように、一瞬のうちに、白く変わったのだ。
 まばゆいほどの光で、守られるように輝いた、アルネロス――もはや『闇』という名が似つかわしくない、白い烏となったものは、その優しい月光のような、青い瞳をフェリアラに向けた。
「フェリアラ――愛しい天使の子よ」
 その(くちばし)から発された、澄んだ響きの声に、フェリアラは息を呑んだ。
「そんな、まさか――大天使、マリエラ様……?」
 全ての天使の、母ともいうべき至高の存在――姿すら目にしたことはないというのに、その声は、フェリアラもよく知るものだった。
「どうして……どうやって、この闇の国に?」
 信じられぬまま、訊ねたフェリアラを、白い烏は優しく見つめた。
「私たちが、貴女を見捨てたとでも? この闇の国へ、私の力を少しだけ結晶化させ、烏の姿に変え、彼を油断させ、貴女の様子を見るために送ったのです」
 まさに慈愛に満ちたその声に、フェリアラは驚きながらも、聞き入っていた。
「彼が貴女を本当に傷つけることがあれば、私は彼を許さなかったでしょう。けれど、見たところ――彼は貴女を本当に愛していた。
 だから、貴女の様子を見守ることにしたのです。貴女が、本当に彼を憎み、帰りたいと願うなら、共に連れ帰ろうと……。
 けれど、貴女は――異なる決断を下した。そうですね?」
 あえて、問いかけたのであろう、彼女の言葉に、フェリアラは長い間、白い烏の姿を見つめていた。
 何も強制することのないような、優しい、優しい青い瞳――まさに大天使マリエラの慈しみを感じながら、フェリアラは瞳を伏せる。
 自然と、目で追うのは、今はゆったりと呼吸をし、瞳を閉じたままの、ルサイオスの姿。
 そして、ゆっくりと顔を上げた、その時、彼女の顔には、笑顔すら浮かんでいた。
「ごめん、なさい――マリエラ様」
 悲しい、悲しい笑顔。それでも、その瞳には、決意の色があった。
「そう――フェリアラ、後悔はしないのですね?」
 マリエラの、優しい問いに、フェリアラは潤んだ瞳で、それでも笑みを見せる。
「わかりません……でも、彼を救わなければ、もっと後悔していたと、思いますから――」
 あの瞬間に、わかってしまった。秤にかけられた、選択肢を、無意識に選んでしまったのは、自分自身なのだ。
 遠く、見えることのない空の向こうを、一瞬だけ仰いだフェリアラは、瞳を閉じ、すぐに決別するかのように、見慣れた闇へと、視線を戻した。
「貴女には、もう力は残っていない。もう、天使として戻ってくることもできない。
 それでも、私は貴女を誇りに思いますよ――フェリアラ」
 それが別れの言葉であり、彼女の最後の優しさであったのだと、心に刻みながら、フェリアラは頷いた。羽ばたき、闇の世界から姿を消した白い烏を、見送りながら――。





 聖なる光が消え、元の闇に戻った、薔薇の檻も消えた牢獄で、ルサイオスはそっと目を覚ました。
 覗き込んでいた自分の姿を見とめ、深紅の瞳が大きく見開かれるのを、フェリアラは可笑しそうに眺めた。
「なぜ――」
 今度は彼がそう訊ねるのだと、フェリアラは不思議な気分で聞いていた。
「なぜ、行かなかったのだ……いや、どうして、私は――」
 力の戻った自分の体と、この場に残っているフェリアラの姿を交互に見て、混乱の極みにいるようなルサイオスに、彼女はそっと笑った。
「私がここにいて、嬉しくないの? それとも――天使の力を使い果たした私には、もう興味はないのかしら」
 その言葉に、信じられないように首を振って、ルサイオスは体を起こした。
「まさか、そなたが――? そんな、なぜ、そのような愚かなことを……!」
 顔色を変えて、問いかけてくる彼が、本当に悪魔なのか疑問にさえ思えて、フェリアラは更に笑った。
「そうね。本当に、愚かだわ。でも――お互い様だと、そう思わない?」
 どこか楽しげにさえ言ってみせるフェリアラを、ルサイオスは驚いたように見つめている。
 闇に包まれていることが、そんなに苦痛ではなくなっていることに、フェリアラは苦笑さえもらした。
「影……」
 ふと呟いた彼女に、ルサイオスは訝しげな表情を返す。
「貴方の名前よ。影は光と反発するものだけれど――どちらも、お互いがいなければ、存在することはできない。
 私と貴方は――そういう運命だったのかもしれないわね」
 独り言のようにそう言ったフェリアラに、ルサイオスは理解できないような顔をした。
「要するに……光は、影と共にあるということよ」
「光……?」
 ようやく問い返した彼を、少し苛立ったようにフェリアラが睨んだ。
「私の名のことよ。フェリアラ――光、という意味で名づけられたの。影を意味する貴方の名とは正反対だけど、こうして出会ってしまった以上、共にあるのが運命なのかも、ってそう言ってるの!」
 自分でも、まわりくどい言い方であるとは思う。それでも、これ以上の言葉は、フェリアラには言えなかった。
 少し赤くなった彼女の頬と、そらされた青い瞳を、食い入るように見つめていたルサイオスは、本当に、ひどく間抜けな顔で、口を開いた。
「夢、ではないのか――?」
 かすれたその声に、フェリアラは可笑しそうに笑いながら、首を振る。
 金の髪が、闇に揺れて、淡く輝いて――正気を取り戻したようなルサイオスが、一気に彼女の元に歩み寄った。
「本当に――私と、共にあると? そう、言ってくれるのか」
 間近に迫った深紅の瞳が、中途半端な答えなど、許さないと告げている。その視線を受けとめて、フェリアラはゆっくりと頷いた。
 奇跡を見るかのような、そんな目でフェリアラを見ていたルサイオスは、そっと片手を彼女の髪に伸ばす。金の髪に宝物のように触れてから、今度はやわらかな頬へと、その手を移動させていく。
 触れられるたびに、心臓の奥が熱くなる――その感覚が、今はもう、心地よく思えた。
 いつの間にかこの心を占めていたのが、どんな想いであるのか、わかってしまったから。不器用で、愚かなこの悪魔の側にいることを、選んでしまったのだから――。
 じっとされるがままにしているフェリアラの、頬を包んだ彼の手が、少し震えている。
「……フェリアラ」
 初めて、彼の低い声で名を呼ばれて、全身に、熱い気持ちが伝わってくるような気がした。
 名を口にした途端、万感の想いがあふれたかのように、ルサイオスは強く彼女の体を抱きしめた。
「私は、天使を――本当に手に入れたのか」
 白い翼に、そっと触れて、ルサイオスは囁く。その羽根は、今度は彼を傷つけることはなかった。
「もう、天使じゃないわ。力も全て失った……その翼は、ただの名残りよ」
 少し俯いてそう答えたフェリアラの顎を、そっと持ち上げて、ルサイオスは微笑んだ。
「いや、そなたは私にとって――いつまでも美しい天使だ。私だけの……」
 白い肌と、褐色の肌が対比して、唯一お互いの生まれを思い出す。それでも、黒く長い爪が、彼女を傷つけないようにそっと触れてくるルサイオスは、フェリアラにとって、もう恐ろしい悪魔ではなかった。
 二人を照らす、青白い月を見上げて、ルサイオスは大切そうに、フェリアラを抱く。
「千の苦しみを与えた私は……万の誓いを贈ろう。私のために、そなたが捨てた世界を――懐かしむ暇もないほどに、そなたを愛することを誓う。私の誓いは、永遠だ――」
 心の底から、はっきりと告げるような彼の言葉に、フェリアラの瞳から、輝く涙がこぼれた。
 瞳を閉じたフェリアラの唇に、そっと彼の唇が重なる。
 闇の世界で、お互いの存在だけを抱きしめる二人は、もはやただの恋人たちでしかなかった。
 初めての口付けは、不器用で、限りなく甘い――奇跡の味がした。



 
 
 
 
 END
 

  


 


 

 

  

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