ペロの家出

  


 
 
 ぼくはペロ。生後半年の子犬だよ。
 真っ白の毛並みが自慢で、もこもこしてて、ぬいぐるみみたいって、よく言われるんだ。
 ペロって名前はね、ソウタくんが付けてくれたんだよ。
 ソウタくんってのは、ぼくのお兄ちゃん。今年の春から、小学校ってとこに入ったばっかりなんだって。
 だけど本当はね、ソウタくんより、ぼくのほうがお兄ちゃんなんだよ。
 だって、ママさんが言ってたもん。ぼくは人間の年じゃあ、もう九歳なんだって。ソウタくんより年上なんだよ。
 それに、ソウタくんは、ぼくのこと、いつもいじめるの。
 頭をたたいたり、尻尾をひっぱったり、ぼくの散歩やエサも忘れるし、全然可愛がってくれないんだ。
 だから、ぼくね、決めたの。
 こんなお家、出て行ってやるんだ! って。



 そう、あれは今朝のこと。
 ソウタくんが学校へ行く前に、ママさんが言ったの。
「ペロの首輪はずして、お庭で遊ばせてあげなさいよ!」って。
 それは毎朝のぼくの日課なんだけど、ソウタくんはやっぱり忘れてて。
 何度もママさんに怒られてから、やっとぼくの首輪をはずしてくれたんだ。
 喜んでかけまわろうとしたぼくの頭を、ソウタくんはまたポカンとたたいて、学校へ行っちゃった。
 その時、ぼくは気づいたんだ。
 いつもは閉まってる、お家の門が、ちょっとだけ開いていたのを。
 きっと、急いでたソウタくんが閉め忘れたんだよ。
 ママさんは忙しそうに、ベランダで洗濯物をほしてる。
 それで、ぼくは、気づいたら走ってた。
 外の世界へ。
 そうだ、こんなところから、逃げ出してやるんだ。
 もっといいところへ、行ってやるんだ!
 そうやって、ぼくの家出は始まったんだ。



 最初は、とっても嬉しかった。
 初めて一人で見る外の景色。ひもをぐいぐい引っ張られずに、のんびり歩ける。
 行きたいところへ、見たい場所へ。
 ぼくはキョロキョロ、あちこちを見回した。
 空には太陽、緑の木はきれいで、鳥が鳴いてる。
 ああ、なんて、幸せなんだ。
 ぼくは自由なんだよ!
 大きな声でぼくがさけびたくなった、その時だった。
 ブウーン、と音がして、突然後ろから何かがやってきたんだ。
 ぼくはあわてて飛びのいたけど、その拍子に電信柱にぶつかっちゃった。
 あいたたた、びっくりしちゃったよ……。
 ちかちかする目を開けたら、さっきの音はもう遠くに行ってて、ぼくはわかった。
 ああ、あれはいつも、お家に何かを届けにやってくる、大きな自転車。
 ソウタくんが乗ってるのが大きくなって、うるさく、はやくなったみたいなやつ。
 なんだかいばって見えて、ぼくはきらいだったんだ。
 ああ、やっぱりいやなやつだった。今度からは、気をつけなきゃね。


 まだどきどきしてるぼくは、それでも背中をしゃんと伸ばして、また歩き出した。
 そしたらね、お姉さんたちに会ったんだよ。
 みんなでおそろいのお洋服を着たお姉さんたちは、ぼくを見て、みんなにっこりしてくれた。
「きゃあ〜かわいい!」
 口々にそう言って、ぼくをかわりばんこになでなでしてくれたの。
 ぼくは、ちょっと恥ずかしかったけど、胸を張って言ったんだ。
「ぼくね、今日から一人なんだ! 家出したんだよ! これから、自由に生きていくんだ!」
 でもぼくの言葉はわからないみたいで、お姉さんたちはただ笑って、手を振ってくれた。
 みんながぼくを応援してくれてるみたいで、ぼく、とっても嬉しかったんだよ。



 そのまま、ぼくがごきげんで歩いてたら、いつの間にか、散歩では来たことのない道まで来ていた。
 ぼくは、のどをごくん、と鳴らした。
 どきどきしたけど、なんだか大人になった気がしたよ。
 ちょっと下がりそうになったしっぽを、またぴんと上げて、ぼくは進んだ。
 そしたら、急に大きな声がしたんだ。
「こら、なんだお前! ここは俺の縄張りだぞ!」
 びっくりして振り返ったら、そこには大きな黒い犬のおじさん。
 お顔にちょっと傷があって、とっても怖そう。
「あ、あの……ぼく……」
 あんまりびっくりして、ぼくは何て言っていいかわからなかった。
 そしたら、おじさんは、ぼくをじろじろと見てきたんだ。
「お前、野良にしちゃあ、おかしいな。でも、首輪はしてねえみたいだし……そんなちっこいのに、どうしたんだ」
 声は怖いけど、ちょっと心配してるような顔で言ってくれたから、ぼくはやっと落ち着いてきた。
「ぼく、家出してきたんです」
「家出?」
 ぼくの返事を聞いて、おじさんは、不思議そうな顔をした。
「なんで、家出なんかしてきたんだ」
「だ、だって……ソウタくんが、ぼくのこと、いじめるんだもの。頭を叩いたり、尻尾を引っ張ったりするの。ひどいでしょう?
 それに、パパさんは、いつもお仕事でお家にいないし、お休みの日だって、寝てばっかりで遊んでくれないんだよ。
 ママさんはごはんをくれるけど、ぼくよりソウタくんばっかりお世話してるんだもん。
 ぼくはね、全然可愛がってもらってないんだ。だから、家出してきたの」
 ぼくの話を、黙って聞いていたおじさんは、ふん、と鼻をならした。
「お前……そんなことで家出したのか? 家出なんかしてもいいことはねえぞ。悪いことは言わねえ、とっとと家に帰んな」
 てっきり、わかってもらえると思っていたぼくは、そんな風に言われてびっくりしたんだ。
「そんな……どうして? お家になんか、戻りたくないよ」
「どうしてって、お前こそ、どうしてそんなに家がいやなんだ? 家にいたら、エサはもらえるし、寝るとこだってある。楽でいいだろう」
「でも……じゃあ、どうしておじさんは一人でいるの? そのほうが楽しいからじゃないの? お外にいるほうが、自由でいいじゃない」
 必死で言ったぼくに、おじさんは困ったような顔をした。
「だけど……外にいたら、エサだって、自分で探さなきゃいけねえんだぞ? 大変なことだって、色々あるし」
 渋い顔をしたおじさんに、ぼくはそうだ、と尻尾を振った。
「ねえ、じゃあ、おじさんと一緒にいさせてよ! おじさんがぼくに、色々教えてくれたらいいじゃない。お願いだよ、おじさん!」
 覗きこんだぼくを、長い間見ていたおじさんは、ぐうう、と低くうなって、頭を垂れた。
「まったく、しょうがねえ坊やだな……はぐれないように、しっかり付いてきな!」
 大きな尻尾を振り上げて、前を歩き出したおじさんに、ぼくは勇んで付いていった。




 それから、ぼくはおじさんと一緒に町を歩いたんだ。
 おじさんは色々なことを知ってた。
 あっちの道は、人が多くて危ないから、行かないほうがいい、とか。
 大きな道路は、車、っていう怖いのがいっぱいいるから、気をつけろ、とか。
 おじさんみたいな野良犬たちが集まる場所、とか。
 あと、人間の子供には、気をつけたほうがいい、とかね。
 子供たちは、ぼくらをなでたりもしてくれるけど、蹴られたりすることもあるからだって。
 それはぼくにもようくわかった。だって、ソウタくんを思い出したから。
 そして、歩き続けていた時、ぼくのお腹がぐるぐる鳴った。
 それに、こんなに歩いたのは初めてで、足もくたくただったんだ。
「そうか、腹減ってるよな。食い物のことも、教えてやんねえとな」
 おじさんは、たのもしい口調で、ぼくを連れて行ってくれた。
 辿り着いたのは、何かおいしそうな食べ物の匂いがする、場所だった。
「ここはな、ラーメン屋ってんだ。この裏には、人間たちの残した食い物がある。うめえんだぞ」
 そう言うと、おじさんはすばやくぼくに、食べ方を見せてくれた。
 ドッグフードしか食べたことがないぼくは、最初はびっくりしたけれど、食べてみてびっくりした。
 なんだかわからないけど、とってもおいしかったから。
 お店の人間が出てくる前に、急いで食べなきゃいけなかったけど、ぼくは大満足だった。
 帰り際に、他にもこういう食べ物がある場所をいくつか教えてもらって、ぼくはおじさんに感謝した。
 夕暮れの裏道を歩きながら、ぼくはなんだかほこらしい気分だったんだ。
 こうして、外の世界で、ぼくはちゃんとやれてるじゃないか。
 そりゃあ、まだおじさんがいないとだめだけど、そのうち一人でだって、立派に生きていけるようになるさ。
 尻尾をふりふり、ぼくは楽しくて仕方なかった。



 その夜は、おじさんがねぐらにしている、公園の植木の中で寝ることになった。
 人間が捨てていった新聞の上に、寝ころんで、ぼくらはおしゃべりをしてた。
 今日一日の冒険に、ぼくは興奮していたけど、段々ねむたくなって……。
「こうやってな、今は季節がいいからいいけど、冬になったら、寒くて大変なんだぞ」
 おじさんは一生懸命おしゃべりしていたけど、ぼくはもう、半分眠りの中。
 ため息をついたおじさんにもたれて、ぼくはいつのまにか、目を閉じていた。
 そして夢の世界へまっしぐら。
 明日はどんな冒険が待っているんだろう。
 ぼくは、わくわくしながら、一日を終えたんだ。


 このまま、おじさんと楽しい日々が続いていくんだ。
 そう安心していた次の朝、いきなり事件は起こった。
 おじさんと、朝ごはんを探して歩いていた、その時だった。
 大きな大きな車がやってきて、突然おじさんが捕まえられたんだ。
「おじさん!」
 叫んだぼくに、おじさんはあばれながらも答えた。
「逃げろ、早く逃げるんだ!」
 逃げる……? どうして? 何が起こったの?
 混乱していたぼくは、咄嗟に動けなかったけど、怖い顔をした人間たちが、近づいてきて、あわてて走った。
 その間にも、おじさんは大きな入れ物に入れられて、車に乗せられているのが見える。
「おじさんをどこに連れて行くの?」
 必死で叫んだぼくの声は、無視されて、人間たちは、ぼくを捕まえようとやっきになっていた。
「俺のことはいいから、お前は逃げるんだ! 自由に生きるか、家族のところに戻るか、どっちでもいい! とにかく無事に逃げてくれ――!」
 おじさんの声が、ものすごく真剣だったから、ぼくはそれ以上振り返るのをやめて、走った。
 途中で水溜りにすべってこけたけど、それでも立ち上がって、ぼくは走る。
 走って、走って、全速力で走って、こんなに走ったことはないくらいに走って、気がついた時には、もう人間も、その車もいなかった。
 そう、そしておじさんも――。
 小さな公園に辿り着いて、ぼくは、気が抜けたように座り込んでいた。
 外の世界で、初めて出会った優しいおじさん。
 一体、どうして連れて行かれてしまったんだろう。
 何もわからなかったけれど、おじさんがもう戻ってこないのだということは、なんとなくわかった。
「おじさん……」
 突然一人ぼっちになって、ぼくはなんだか心細くなっていた。
 昨日はきらきら光って見えた外の世界も、今日はなんだか恐ろしい。
 しばらく、そうやって座り込んでいたぼくだったけど、いつまでもこうしてちゃいけないって思って、立ち上がったんだ。
 だって、おじさんが言ってくれたから。
 自由に生きるか、家族のところに戻るか。
 ぼくは、自由に生きるんだ。おじさんみたいに、強くなって、一人でもちゃんと、生きていってみせるよ――!



 また歩き出したぼくは、もうそこがどこだかもわからなかったけど、それでも必死で歩いていた。
 だけど、もう足が疲れるぐらいに歩いたのに、おじさんに教えてもらった、食べ物のある場所に辿り着けなかったんだ。
 ああ、お腹がすいたなぁ。
 あんまり喉が渇いて、道端のにごった水もなめてみたけど、なんだか砂でごろごろして、飲めなかった。
 お腹がすきすぎて、ふらふらしていたぼくは、ふと漂ってきたいい匂いにつられるように歩いていった。
 そしたら、なんとそこには、おいしそうな食べ物がいっぱい並んだ、お店があったんだ。
 まあるい形をした、ふんわりいい匂いのするそれが、何て言うのか、ぼくは知ってた。
 そうだ、あれはコロッケっていうんだ。パパさんが、前に、内緒で少しだけくれたんだよ。とってもおいしかったなぁ……。
 ぼくは、そのままふらふらと、コロッケのほうへ近寄っていった。
「いらっしゃいませ〜いかがですか〜」
 にこにこしながら言っている優しそうなおじさんの顔が見えた。
 ぼくは、そのおじさんに向かって、頼んだんだ。
 どうか、一つ分けてくださいって。
 ぼくの声に気づいて、おじさんが出てきたから、ぼくはやった! と思った。
 やっぱり、優しいおじさんだ。ぼくに一つ、コロッケをくれるに違いないって。
 それなのに、おじさんは急に怖い顔になって、ぼくを見下ろしたの。
「なんだ、この野良犬が! しっ、しっ! さっさとあっち行け!」
 ぼくを追い払うように手を大きく振るおじさん。
 でもぼくは、あんまりお腹がすいて動けなくて、おいしそうなコロッケがあきらめきれなくて、その場に留まっていた。
 そしたら、おじさんは顔をしかめて、ぼくのほうへやってきた。
「あっちへ行けって言ってるだろう! こんな小汚い犬が店の前にいたら、商売になんねえんだよ!」
 白い長靴を履いた足で、ぼくを蹴ろうとしてくるおじさんに、ついにぼくはその場から逃げ出した。



 そして、とぼとぼと歩いていたその時、ぼくは見たことのあるお姉さんたちを見つけた。
 あ、あれは、昨日ぼくを可愛いって撫でてくれた、お姉さんたちだ――!
 あの人たちのところへ行けば、何か食べ物をもらえるかもしれない!
 ぼくは喜び勇んで、お姉さんたちの足元へ駆け寄った。
 鳴いて訴えかけたぼくの声に、振り返ったお姉さんたちは、みんなが眉をひそめて言った。
「いやっ、何この犬、きったな〜い!」
「やだ、こっち来ないでよ!」
 昨日とは全く違う、いやそうな顔でそう言われて、ぼくは、必死で振っていた尻尾をだらりと下げた。
 なんでなんだろう。
 昨日は優しかったのに――。
 お姉さんたちが歩いていってしまってから、ふと横を見たぼくは、お店のガラスに、映っていたぼくの姿を見た。
 なんということだろう。
 あれだけ、真っ白でキレイだったぼくの毛は、薄汚れて、白い色すらわからなくなっていた。
 ぬいぐるみみたいにもこもこしてた毛が、濡れてかたまって、ぼくじゃないみたいだった。
 そこに映っていたぼくは――自由に生きるために、外の世界へ希望を持ってやってきた、子犬じゃなくて。
 ただの、しょぼくれた、汚い野良犬だったんだ――。
 ぼくは、やっと思い出していた。
 ぼくの毛は、いつもママさんがブラシできれいに梳いてくれてた。
 パパさんは、いやがるぼくを、時々お風呂に入れてくれた。
 水はなんだかきらいだったけど、いつもすっきりして、気持ちよかったんだ。
 それに、ソウタくん……。
 意地悪で、ぼくをいじめていると思ってたけど、ソウタくんの目は、さっきのコロッケ屋のおじさんや、お姉さんたちの目とは違ってた。
 ちょっと照れくさそうにぼくを見て、それでも時々笑ってくれてた。
 ぼくのお家は――ぼくが思うほど、悪いところじゃなかったのかな。
 今更そんなことに気づいても、もう遅かった。
 だって、ぼくは、もうお家から遠く離れてしまったんだ。
 帰りたくても、どこへ行けばいいかもわからない。
 ぼくは……なんてバカなことをしたんだろう。
 


 路地の隅でうつむいていたぼくは、ぽつり、ぽつりと冷たいものが当たって、雨が降り出したことに気づいた。
 すぐに大粒の雨になって、まわりでみんながあわてて走り出す。
 ぼくもなんとか歩き出して、雨を避けられる場所を探した。
 ようやく辿り着いた、地下道の中で、ぼくはぶるぶると体を振った。
 そうやって水滴を落としても、まだ寒くて、ぼくはその時、おじさんの言葉を思い出してた。
 外の世界は、大変なことがたくさんある――って。
 おじさんが言ってたことを、ぼくはやっと理解できたんだ。
 何もわからずに、自由に生きてやるなんて思ってた自分が、とっても恥ずかしくなった。
 でもいくら後悔しても、もう、飛び出してしまった。
 ぼくは、どうしたらいいんだろう……。
 困り果てて、ふと見上げたぼくの目に、歩いていた親子が見えた。
 お母さんが、女の子の肩についた水滴をふいてあげている。
 仲よさそうに、手をつないで歩く親子を見送って、ぼくは思い出していた。
 そうだ、ぼくにも、お母さんがいるんだ。
 ソウタくんのお家にもらわれる前は、お母さんと兄弟たちと一緒にいたって聞いた。
 あんまり覚えていないけど、そこへ行けば、お母さんたちと暮らせるかもしれない。
 確か、同じ町にあるお家だって、ママさんが言っていたけど――。
 ぼくの足じゃあ、どれくらいで辿り着けるのか、どこへ向かえばいいのかもわからなかったけど、ぼくはやっと見出した希望に、少し元気が出たんだ。
 歩いて、歩いて、お母さんを見つける。
 そんな、夢みたいな目標が、今のぼくには、唯一の希望になっていた。
 



 雨が上がって、再び歩き出したぼくは、とにかく必死だった。
 頑張って、それまではこの外の世界で生きていかなきゃいけない。
 そうじゃないと、ソウタくんたちにも、申し訳ないから――。
 お腹がすいてどうしようもなくて、ぼくは道端の草も食べた。泥水も飲んだ。
 歩いてるうちに、道路の端の溝にもはまったけど、必死で自分で脱出した。
 もう、ぼくの体は泥だらけで、あちこち痛くて辛かったけど、それでも歩くのはやめなかった。
 なんとしても、お母さんのところへ辿り着くんだ。
 それだけを支えに、ぼくは頑張った。
 お母さんに会ったら、何て言おう。
 お母さんは、ぼくが家出したのを知ったら、何て言うのかな。
 心配してくれるかな、それとも叱られるかな。
 でも、ぼくはお母さんに言うんだ。
 ぼく、それでも一人で頑張ったよって――。
 まだ見ぬお母さんの笑顔を思い浮かべながら、ぼくが歩いていた、その時だった。
 通りかかった公園に、水を飲もうかと入っていったぼくは、ごみ箱に捨てられた、オニギリを見つけたんだ。
 空腹も限界だったぼくは、喜んで駆け寄った。
 そしてなんとか網の隙間から前足でかき出して、オニギリを取ることができた。
 いただきます――!
 ぼくが、大きく口を開けた、その瞬間。
 後ろから、誰かの吠える声が聞こえた。
 振り返ったぼくが目にしたのは、何匹かの大きな犬のお兄さんたち。
「お前、俺たちの縄張りで何やってんだ!」
 リーダーみたいな目つきの鋭いお兄さんに睨まれて、ぼくはあわててオニギリから離れた。
「ご、ごめんなさい。でも、ぼく、お腹がすいてて……」
 説明しようとしたぼくの声は聞かずに、お兄さんたちはあっという間にオニギリを奪い返して、ガツガツと食べてしまった。
「あ、あの――」
「これ以上、ここをうろついたら、チビでも容赦しねえぞ! とっとと、行っちまえ!」
 お兄さんの怒鳴り声は、とてもじゃないけど、聞き耳なんか持ってくれそうになかった。
 みんなですごみながら、吠え立てられて、ぼくはあわてて逃げたんだ。
 それでも、二度と来ないようにか、すごい剣幕で追いかけられて、ぼくは後ろも見ずに走った。



 走り続けて、なんとかお兄さんの声が聞こえなくなって、ふとあたりを見渡した時、もうすっかり夕暮れが訪れていた。
 ぼくは、いつのまにかお家がたくさん並んだ場所までやってきていた。
 ここは、一体どこなんだろう……。
 賑やかな子供の声が遠くで聞こえて、灯りのついた家々は、とてもあったかそうに見える。
 もう、元気が出なくて、ぐったりした体でぼくは座り込んでいた。
 お腹がすいて、もう一生動くこともできない気がした。
 そのまま、意識が遠のきそうになった時だった。
 あれ……?
 ふと目にした赤い屋根に、なんだか見覚えがあるような気がしたのだ。
 そして、その前にある、大きな木。
 道の角には、赤くて丸いもの――あれは、そう、ポストって言うんだ。
 ぼくがいつもおしっこをかけるから、ソウタくんが教えてくれたの。
 そんな……まさか、本当に?
 ぼくは無意識に立ち上がっていた。
 あのポストを越えたら、小さな公園があって、マンションがあって、そしてその角を曲がったら――!



「お家だ――!」
 ぼくは、信じられない気持ちで、立ち止まっていた。
 だって、それは、まぎれもないぼくのお家だったんだもの。
 青い屋根に、白い壁の、懐かしいお家。
 家の前には、ソウタくんの、新しい自転車がとまってて、その隣には、ママさんがいつも買い物に使う、古い自転車が並んでる。
「ぼく、帰って、きたの……?」
 いつの間にか、呟きながら、ぼくは一歩、二歩、と進んでく。
 黒い門扉は、昨日の朝見た時と同じように、少しだけ開いていた。
 その隙間から、そうっと覗いたぼくは、そこに見えた光景に、思わず足を止めたんだ。
「草太、もういいから、お家に入って、ご飯食べなさい」
「いやだ! だって、ペロが帰ってないもん! ペロと一緒に食べるんだもん!」
「草太……」
 困ったように言うママさんの隣で、叫んでいるのはソウタくんだった。
 でも、その顔は、いつもと違って、涙でぐしゃぐしゃで……ぼくは、本当にびっくりしたんだ。
「ぼくが、いつもいじめてばっかりだったから、ペロが出てっちゃったんだ……ぼくが、ぼくがペロに優しくしなかったから、だから、ぼくが悪いんだ――!
 ペロが戻ってくるまで、僕、ちゃんと待ってなきゃいけないんだもん――!」
 しゃくりあげながら、ママさんに叫ぶソウタくんを見て、ぼくはその場から動けなかった。
「ねえ、ペロ、このまま戻ってこないの? 戻ってこなかったら、どうしよう……僕のせいだ。ぼくが、ちゃんと門扉を閉めなかったから、ペロが外に出ちゃって、車にひかれでもしてたら、僕、どうしたらいいの――? そんなの、いやだよ、ねえ、ママ――!」
 泣きじゃくるソウタくんを、優しく抱きしめて、ママさんは微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫よ、草太。きっと、ペロ、戻ってきてくれるわよ。草太を置いて、どっかへ行っちゃうわけないじゃない。きっと、どこかで迷っているだけなのよ。
 だから、ちゃんと信じて待ってましょう。ね?」
 頭を撫でて、そう言ったママさんを、ソウタくんは、涙に濡れた瞳で見上げた。
「本当……?」
 ソウタくんの小さな声に、ママさんはしっかりと頷いて、笑った。
「そうよ。だから、ペロが帰ってきたら、ちゃんとお世話してあげること。弟が欲しいって言う草太のために、パパがもらってきてくれた、大事なペロだもの。いいわね?」
 ママさんに言われて、ソウタくんは、涙を拭いて、頷いた。
「うん! 僕、今度こそ、ペロに優しくするよ。だって、僕、お兄ちゃんだもん」
 目を輝かせてそう言ったソウタくんを、ママさんは優しい瞳で見つめた。
「僕ね、ペロが来てから、なんだか照れくさくて、どうしたらいいかわからなかったの。でも、そんなんじゃだめだよね。ペロが帰ってきたら、僕が、ちゃんと散歩にも連れて行く。
 もっと一緒に遊んであげるよ。だって、僕、ペロが大好きだから――!」
 力強くそう言ったソウタくんに向かって、僕は思わず走り出していた。
 ソウタくん――ぼくも、ソウタくんが大好きだよ……!
 大きな声で鳴いたぼくの声に、ソウタくんは顔を上げて、大きく瞳を見開いた。
 ママさんも振り返って、そして、二人でぼくの名前を呼んでくれたんだ。
「ペロ!」って――。
 ソウタくんに飛びついて、思いっきりその顔をなめたぼくを、ソウタくんは嬉しそうに抱きしめてくれた。
 いつまでも顔をなめつづけるぼくに、ソウタくんはくすぐったそうに笑っていた。
「あっ、こいつ、すっごい汚れてるよ、ママ! あ〜あ、服が汚れるじゃないか、ペロったら。仕方ないなぁ、もう――!」
 そう言いながらも、ソウタくんは、いつもみたいに怒ったような顔はしてなかった。
 そして言ったんだ。
「初めて会った時も、こいつ、僕の顔を一番になめたんだよ。こうやって――だから、僕、ペロって名前にしたの。お帰り……ペロ!」
 くしゃくしゃの笑顔でそう言ったソウタくんに、ぼくは大きく吠えたんだ。




 その夜は、久しぶりに満腹になった。ママさんは、いつものドッグフードじゃなくて、パパさんが買ってきたコロッケを二つもくれたんだよ!
 パパさんとソウタくんに、汚れた体をごしごし洗ってもらって、ぼくはまた、真っ白のペロに戻った。
 ぼくはね、みんなにぼくの大冒険を話してあげたけど、みんなただにこにこして、ぼくを撫でてくれただけだった。
 でもいいんだ。言葉は通じなくても、大切な気持ちは、きっと通じたと思うから。
 そして、ぼくはソウタくんの隣で眠った。幸せな夢を見ながら――。



 そんな波乱万丈な家出から戻った、次の休日。
 なんと神様は、もう一つのプレゼントを用意してくれていたんだ。
 ううん、正確には、ぼくの大好きな家族のみんなが、だけど――。
 車に乗せられて、ぼくはどこへ行くのかと思っていた。
 辿り着いたら、そこは、黄色い屋根の大きなお家で、庭に放されたぼくは、早速探検を開始しようとした。
 だけど、そこには、何よりも素敵なものが待っていたんだ。
「お母さん――?」
 なぜか、言葉が出ていた。心で考えるよりも先に、わかったんだ。
 真っ白な毛並みの、大きな犬。優しい瞳で、ぼくを見ていた。
 そして、隣には、二匹の小さな弟。
「よく来たわね、ペロ」
 飛びついたぼくを優しくなめて、お母さんが言った。
「お母さん!」
 嬉しくて、嬉しくてお母さんに体をこすりつけるぼく。
 お母さんは笑顔で言った。
「いい名前をもらったわね――ペロ、あなたは、今、幸せ?」
 ぼくをじっと見つめて訊ねたお母さんに、ぼくは飛びっきりの笑顔で言ったんだ。
「うん! ぼく、すごく幸せだよ! とってもいい家族がいるから――!」
 ぼくの答えに、お母さんは満足そうに笑ってくれた。


 
 ぼくはペロ。生後半年の、真っ白な子犬。
 ぼくの家族はね、世界で一番の、素敵な人たちだよ――。


 
 
 
 
 END
 

  


 


 

 

  

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