水の、ひとしずく

  


 
 
 僕がいつ、どこで生まれたのかはわからない。
 ただ、気がついたら、漂っていた。
 漂いながら見渡すと、周りには、僕と同じ姿かたちをした、たくさんの仲間がいた。
 僕と同じように何も言わずに漂っているものもいれば、何か話しかけてくるものもいた。
 そうして漂っているうちに、たくさんの友達ができた。
 
 僕より先に生まれたらしいその友達は、色々なことを教えてくれた。
 僕が漂っているその場所は、川、という名前らしい。
 ある友達は、山、という場所から溶けて流れてきたと言っていた。
 そしてもう一人は、空、という上のほうの世界から、落ちてきたと言っていた。
 どこか暗い場所から出てきた、という言葉もあった。
 
 それでもみんな、一番最初にどこから来たのか、という質問には答えてくれなかった。
 そう、それは誰も知らないことらしい。
 気がつけば、そこにいた、という記憶。
 そうならば、僕はこの川にいたのが最初の記憶、なのだろう。
 
 漂ううちに、周りの景色は段々変わっていく。
 僕はみんなに教えてもらい、色々なものの名前を知った。
 まず、川のそばに並んでいる緑のものは木。
 そして上に見えるのは、空、白いふわふわしているのは、雲。
 僕は雲を見ながら、なんだか僕らと似ている、と思ったりした。
 
 空は僕らに色々な表情を見せてくれた。
 青く澄み切っていたり、まぶしい光にあふれていたり、燃えるように真っ赤だったり。
 それはとても綺麗だったけれど、僕はいつもやってくる、夜、という時間が少し怖かった。
 真っ暗で、何も見えない。漂う自分の姿もわからない。
 それがどうにも不安だった。
 でも仲間に教えてもらって上を見ると、少し、遠くに白いきらきらしたものが光っていた。まあるく、黄色いものも。
 星、と月、というらしいその光に、僕は少し慰められた。

 初めて、雨、というものを知った時には驚いた。
 だって、空からたくさんの仲間が降ってくるんだもの。
 降ってきた、たくさんの、僕と同じ形をした仲間は、やっぱり最初は不思議そうに、やがては僕と同じように、ゆっくり、ゆっくりと漂う日々を過ごすようになるのだった。
 
 時々空を飛んでいる、鳥、というものも僕らを楽しませてくれる。
 大きいものや小さいもの、色々な動きで飛び回り、時には僕らの間近までやってくる。
 それから小さな虫、彼らもとっても面白い。
 だけどすぐにいなくなってしまうから、少しさびしくなる。
 昔はこの川に、魚、というものがたくさんいたらしいけど、今は残念ながら見ることはできない。そう教えてくれたおじいさんは、なんだか悲しそうな顔をしていた。

 でも僕には、見たことのないもののことはあまり気にならなかった。
 僕が一番気になったものは、時々見える、不思議なものたち。
 小さかったり、大きかったり、それは様々な姿かたちをしていて、僕らのそばにやってきたり、遠くに見えたり、するものだ。
 人間、という名前だと、おじいさんは教えてくれた。
 
 そうしてゆっくり、ゆっくりと流れながら、段々と周りに見えるものは変わっていった。
 遠くに少しだけ見えていた建物、という名のものたちが、どんどん増えていき、代わりに木は少なくなっていった。
 建物は段々大きく、高くなっていき、それと同時に、人間もたくさん見えるようになった。
 橋、というものが僕らの上をまたぎ、そこにはとてもすばしこく動く、いろんな色のものたちが行きかいだした。
 自動車、というその中から、人間は出てきたり、消えていったりもする。
 おじいさんが言うには、建物の中に、人間は住んでいるということだった。
 
 僕はおじいさんに、人間のことを色々聞いた。
 おじいさんはなぜだか色々なことを知っていて、僕に教えてくれたけれど、僕がいつも聞く質問には、どこか悲しげな表情を浮かべて、答えてくれないのだった。

『おじいさんは、どうしてそんなに色々知っているの?』
『僕たちはどこから生まれたの?』
『そして、どこへ行くの?』

 困ったように微笑むおじいさんを見て、僕はいつしか質問するのをあきらめた。
 それでも頭の中には、いつもその疑問がまわっていた。
 
 建物と人間が増えていって、しばらくすると、少しずつ、川の様子が変わってきたことに気づいた。
 幅が段々と狭く、細くなった。
 そして、いつの間にかできた、暗い穴に、吸い込まれるように消えていく仲間たちと、また別の穴からは、流れてくる仲間たちもいた。
 流れてくる仲間たちは、どこか疲れたような顔をしていて、話しかけても、答えてくれない。そして川の中は、なんとなく、静かで、沈んだ空気が満ちだしているのだった。

 それでも僕らは漂う。
 流れ、揺れながら、行き先も知らない旅を続ける。
 そして僕もいつしか、あまり言葉を話さなくなっていた。

 そんな毎日の中で、僕はいつしか人間を観察するようになっていた。
 だって、それが一番たくさんいて、いつでも見ることができたから。
 そして人間たちは、建物と違って、いつも動き、何かをしていたから。

 黒い、似たような服を着ている人間たちは、大きな建物に出たり入ったり。
 仕事、ということをしているらしい。
 それより少し背の低い、それでも同じような衣服で揃えた人間たちは、学校、というところに通っているらしい。
 どちらも飽きもせず、毎日、毎日繰り返している。
 僕らがこうして漂うのと同じような行動なのだろうか。

 僕らがいる川の周りには、走っている人や、座っている人、そして犬、というやたらに走り回るものを連れている人など、たくさんの人間たちが集まる。
 その中でも、僕が好きなのは、小さくて、可愛らしい人間。
 どうやら、子供、というらしい。
 嬉しそうに笑って、はしゃいで、歩いたり、走ったり、なんだかとても楽しそうで、そんな彼らを見ていると、僕までが少し楽しくなった。

 けれど、そんな子供を抜きにすると、川の近くにいるのは、どこか沈んだ顔をした人が多かった。
 疲れた顔、さびしそうな顔、どこか、みんなが遠い目をして、僕らが漂う川を眺めているようだった。
 一体、どうしてなんだろう。
 彼らは何を思っているんだろう。
 それは、あの暗い穴から出てきた、仲間たちのような顔だった。

 僕は一度だけ聞いたことがあった。
『どうしてそんな顔をしているの?』
『あの穴の向こうには、何があるの?』

 けれど、穴から出てきた仲間は、僕を見つめて、こう言った。

『知らないほうがいいこともあるんだよ』

 
 その言葉の意味はわからなかったけれど、僕はなんだかそれが人間と関係しているような気がしていた。

 そんなある日のことだった。
 また真っ暗な夜が来て、僕にとってはいやなことに、月も星も見えない、どんよりとした時間の中、ある橋の下まで僕は流れてきていた。
 橋の上に、こちらを見ている人間がいるな、そう思った瞬間――。
 その人間は、川に向かって、飛び降りたのだった。

 突然の衝撃を与えられて、僕らは驚き、飛び跳ねた。
 その僕らを押し込みながら、沈んでいくその人間。
 なんだか怖くて、不安で、僕はその背中を押し上げた。
 僕の力なんかでは、びくともしなかったのだけれど。

 静かな川に巻き上がった飛沫の中で、口々に驚きの言葉を叫ぶ仲間たち。
 その中で、一人だけ、冷たい声で言ったものがいた。

『僕らの未来を絶っておいて、よくもこんなことができるものだ』

 その言葉の意味がわからず呆然とした僕の隣で、おじいさんは悲しげな顔をして、黙っていた。
 沈みかけた人間は、結局たくさん集まってきた人間たちによって救われたようだった。
 僕はなんとなくほっとしたけれど、心の隅に暗い影のようなものが一点、落とされたような気がするのだった。

 たくさん、たくさんの人間たち。
 忙しそうで、でも悲しそうで、不思議な生き物。
 もしかして彼らも、自分たちがどこから来たのか、どこへ行くのか、わからないのだろうか。
 僕の心に生まれたそんな疑問。
 それは、僕の中で、人間という奇妙な生き物を、近く感じさせる気がした。

 流れ、流れて、そんな疑問も忘れかけていた頃、突然事態は大きな変局を告げた。
 ある大雨の日、あまりに大量に流れ込んだ仲間たちに押されて、僕はあの暗い穴へ流されてしまったのだ。
 ゴウ、ゴウ、とすさまじい音と勢いにのまれて、僕は普段の何倍もの速さで穴の中を駆け抜けた。
 そしてあまりのスピードに疲れ果て、何がなんだかわからないうちに、ある場所へと辿り着いた。
 
 人間たちが集まった、建物の中。何かの薬をたくさんたくさん入れられて、いろんなところを通り抜けて、僕はまた流れ出す。
 そして気がついた頃には、またどこかの暗い場所を流れていた。
 流れのゆるやかさに落ち着いた僕だったが、今度は一体そこがどこなのかが気になりだした。
 周りにいた仲間も、僕と同じように不思議そうな顔で、どこにどうなってやってきたのかわかっていないようだった。
 
 しばらく時間が経った頃、僕はまた少し速くなった流れに巻かれながら、突然明るい場所に出た。
 僕がいたのは、何か透明の物の中のようだった。
 あわてて辺りを見回すと、そこには今まで見たことがない風景が広がっていた。

 何か色とりどりの、いろんな形をしたものがいっぱい並んでいて、それはとても窮屈で、でも面白い風景だった。
 何より不思議だったのは、上のほうにいつも見えていた、空がなかったこと。
 そして僕がいる透明の物の中も、同じようにとても窮屈で、狭かった。
 
 ぎゅうぎゅうに押し込まれた僕らが、ひしめき、揺れて、そして落ち着いた時。
 僕の目の前にいたのは――あの、いつも遠くから見ていた、人間だったのだ。
 人間をこんなに近くで見るのは初めてで、あまりに突然のことに、なんだかとても不思議で、驚きと興奮でいっぱいの心で、僕はその人間を見つめた。
 その人間は、なんだかとても疲れたような、悲しいような顔をしていた。
 ああ、まただ――。
 なぜ、人間は、いつもこんな顔をしているんだろう。
 僕がとても近くで見えるそんな顔に、引き込まれるように見つめていた、その時だった。
 その人間が、僕のいる透明の物を持ち上げ、傾けて、僕ら仲間を全部、飲み込んでしまったのだ――。

 ぽっかりとあいた、長い長い、人間の穴の中に、僕らはあっという間に落ちて、流されていった。

 そうして、ふと気づいた時、僕は今までのように、流れていなかった。
 空を見上げて、漂ってもいなかった。
 なんだか暗くて、不思議な、静かな場所にただいるのだった。
 そこには僕の仲間がいるのかもわからない。僕自身の姿もよくわからない。
 ただ、そこにある、ということだけがわかった。
 そして、流れ込んできたのは、何か怒涛のようなものだった。

 楽しい、嬉しい、面白い、悔しい、切ない、苦しい、さびしい、悲しい……色々な、色々な気持ちが、たくさん、たくさん、僕の中に流れ込んできた。
 あふれかえる激流のような、そんな言葉と思いは、僕の体を駆け抜けていった。
 そして、流れ、駆け抜け、押し寄せるようなそれは、僕の心をいっぱいにして、埋め尽くし、あふれていった。
 洪水のような不思議な感覚は、僕にひとつのことを教えてくれた。

 唐突に頭の中にひらめくように、わかったこと――それは、人間の感情なのだ、ということ。

 ただ、漂い、流れていた僕とは比べ物にならないほどのたくさんの感情。
 川の前でいつも人間が見せていたあんな顔には、こんなにたくさんのものが詰まっていたのか――。
 驚きながら、その感情を人間と共有していた、僕は、その怒涛のような流れの奥底に、一つの思いを見つけた。

 それは、驚くべきことに、僕がいつも持っていた疑問と同じものだったのだ。

『僕は一体どこから来たの?』
『なぜ、こうしているの?』
 そして、
『僕らは一体、どこへ行くの?』

 ああ、やっぱり、同じだった。
 僕はなぜか嬉しい気分で、納得していた。

 人間も、僕も、同じなのだ。
 漂い、流れていく時間。
 いつも繰り返している、こと。
 なぜそうしているのか、何のためにそうしているのか。
 僕にも、人間にもわからないのだ――。

 そう、僕が深いところで人間と繋がったような気がした、その時だった。
 僕はまたどこかからやってきた熱い、不思議な流れに乗って、突然、外に飛び出したのだ。
 流れ落ちた瞬間、人間の大きな瞳が見えた。
 悲しげな、苦しげな、その瞳。
 僕はそこから飛び出して、流れて、落ちて、そして――

 全身が何か、形のない、やわらかいところへ溶け出したような気がした。
 自分の輪郭が崩れたような、それでも不思議と心地いいような、懐かしいような、ふんわりとした感覚に僕はいつの間にか包まれていった。

 人間も、色とりどりのものたちも、遠ざかっていく。
 どこを、どう通ったのか、僕はただ、ふうわり、ふうわりと、上っていくのを感じていた。
 
 そして、随分とそんな感覚に慣れた頃、僕は自分の真下に広がる世界を見た。
 遥か下に、いつも見ていた建物や木が、そして山や川が見える。
 人間たちは、遠すぎて見えないけれど、それでもきっといつものように、動いているんだろう。
 嘆き、悲しみ、流れながらも。

 透明な、姿かたちになった僕は、気づいた。
 そうか、ここが空なんだと。
 いつも自分が見上げていたところに、僕はいるんだ。
 ふと気がつけば、周りには自分と同じように、透明な仲間たちがたくさん浮かんでいた。

 同じように空の中で漂いながら、僕は下の世界を眺めた。
 どこか疲れたような、さびしいような色をまとっているようにも見える世界。
 僕は、ずっと以前、誰かが言った、あの言葉を思い出していた。

 僕らの未来を絶ったのは人間だと。
 その意味はよくわからないけれど、人間たちのいる建物から届く、色々な、不快な匂いや、煙、そして奇妙な天気には、いつしか気がつくようになっていた。
 周りで浮かぶ仲間たちも、少し苦しそうな、そんな表情をしている。

 それでも、僕は人間を嫌いにはなれなかった。
 狭く、息苦しいあの空間で、見たあの人間の瞳が忘れられなかったから、かもしれない。
 川の近くで人間が見せる、悲しい表情の意味を知ったから、かもしれない。
 そして、ただ純粋な、美しい笑顔を見せる子供たちを知っていたから、かもしれない。

 浮かんで暮らす、空の中は、それでも下から見た時より何倍も美しかった。
 夕日が染める、優しい、空の中から見下ろす時。
 世界はやっぱり、綺麗だった。

 そんなある日、僕はたくさんの仲間たちと合流した。
 透明な仲間たちが集まって、押し合って、もみあって、そして、いつの間にか僕らは、以前の姿を取り戻そうとしていた。
 ゆらり、と体が動いた瞬間、僕らはあっという間に、滑り落ちるように、下の世界へ落ちていった。

 落下していきながら、僕は気づいていた。
 そうか、今の僕らが雲だったんだ。
 いつも川の中で見上げていた、あの白い雲は、僕らの仲間だったんだ。
 だから、どこか似ているような、懐かしいような気がしたんだ。

 地上へ、地上へと舞い降りていきながら、僕は感じる。
 また、戻っていくのだと。
 いや、戻っていたところから、また出発したのだろうか。

 そして、僕は思ったのだ。

 僕らはこうして、どこかを流れ、漂い、落ちて、吸収され、また上り、落ちる。
 ゆるやかな、一本の道を辿っているようだと。

 なぜ?
 どうして?
 そして、どこへ行くのか――そんな疑問は解けぬまま、それでもこうして廻り続ける。

 それが僕らの、流れなのだと。
 あの、人間の悲しみ、苦しみ、そして喜び――それもまた、同じように流れていくものの運命(さだめ)なのかもしれないと。

 僕らも、人間も、さまよいながら、苦しみながら、流れていくのだ。
 どこから来たのか、どこへ行くのか、悩みながらも、生きていくのだ。
 いつから始まったのか、どこまで廻っていくのか、誰も知らないけれど。
 それでも僕らは廻り、上り、また落ちて、流れる。

 それが僕らの、道である限り。

 僕はまた、新たな旅を始めながら、思う。

 この次、雨となって、地上に降りそそぐ時、
 この次、人間の喉を潤す時、
 そっとささやいてあげよう。

 あなたは一人じゃないんだよ、と。
 僕がいるよ、と。
 あなたも、僕も、同じなんだよ。
 この綺麗な、悲しい世界で、ともに巡り、廻る命の仲間なんだよ、と。
 そう言って、笑ってあげるんだ。

 ただの水の、
 ひとしずくの僕だけれど――。


 
 
 
 
 END
 

  


 


 

 

  

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