きらめく水と青い空

  


 
 
 いつもの生活、ずっと続くとなんとなく思っていた日常。
 そんな毎日が変わったのは、高校一年生の夏だった。
 そう、幕開けなんて、いつでもこんな風に簡単で、驚くぐらいに平凡なものなのかもしれない。



「あ〜まったく、クソ暑かった! まいるぜ、夏ってのはよ〜!」
 俺の部屋のドアを開けるなり、首に巻いてた濃紺のタオルで汗を拭き拭き、スポーツバッグを床に放り投げたヤツを見て、俺は眉をひそめた。
「ノックぐらいしろっていつも言ってんだろ? 着替えでもしてたらどうする気だよ」
 ただベッドの上で涼んでただけだから、本当は別によかったんだけど、一応毎度の台詞を口にする。
「固いこと言うなっての! お前の裸なんて、ガキの頃から見飽きてるんだしさ。今更見たって、別にどうってことないよ」
 そのあまりの言い草にふくれながらも、俺はベッドから起き上がった。
 それを待っていたように、クーラーの風がちょうど当たるその特等席に寝ころんで、リラックスもいいところなこの傍若無人なヤツ――俺の幼なじみは、いつもの猫のような笑顔を向けてきた。
「やっぱ、アキの部屋は落ち着くよ。広いし、涼しいし、なんてったって、うるさくないのが一番!」
 アキ――俺のことをそう呼ぶのは、家族を除けばこいつだけだ。特に褒められたわけでもないのに、そんな風に笑われただけで、単純に機嫌を直してしまう自分がちょっと恥ずかしくなったりして。
「まあ、奈央ん家はいつも賑やかだからな」
「そうそう、うるさいわ、大飯ぐらいのガキどもが三人もいるとさ、落ち着いてくつろいでなんていられないわけよ」
 ベッドの上にあぐらをかいて、短い髪をぼりぼりと掻く――こんな仕草や口調だけを見てるとまるで男みたいなんだけど、年の離れた弟たちの世話を全部やってるこいつは、れっきとした女だ。
 小学校の高学年でお袋さんを亡くしてから、苦労して料理や洗濯なんかの家事も全部覚えた奈央。
 今でこそ自分の好きな部活にも復帰できたし、こうやって俺の部屋に遊びに来たりもするようになったけど、中学に入ってすぐの頃なんかは、全然そんな余裕もなかったんだよな。
 そういう姿を知ってるから、俺はこいつが遠慮なく俺の部屋に入り浸ったりするようになったのが、実は嬉しかったりもする。
 だけどそんな気持ちを表に出すこともできなくて、俺は今日もこうしてただの幼なじみとしてそばにいるのだった。


 *


 夏休み――だなんて言ったって、全然『休み』とは思えない。
 授業がないのは嬉しい限りだけれど、かえって部活のスケジュールが厳しくなって、俺にとっては迷惑なぐらいだった。
 水泳部、と大きく書かれた部室の中で着替えを済ました俺は、まぶしい太陽光線の下に出て行った。
「おっす、秋人(あきひと)! もうすぐ合宿だな!」
 皆に混じって準備運動から始める俺に、早速嬉しそうに話しかけてくるのは、同じ一年生の三田 哲也(みた てつや)だ。
 学校こそ高校で初めて一緒になったものの、地域の同じ水泳クラブに小学校から通ってたから、既に見知った仲だった。
「今度こそお前のタイム、抜いてやるからな! 待ってろよ。あ〜早く思う存分泳ぎてえ!」
 俺の肩をばしっと叩いて、張り切って柔軟しはじめる哲也を横目に、俺は苦笑していた。
 いつもどんぐりの背比べ状態で、タイムを抜きつ抜かれつしている俺たちだったが、今回のところ、この前の都高校大会で俺が出した四百のタイムが勝っている。
 哲也にとっては悔しくてたまらないらしいが、正直俺はそこまでこだわってはいないのだ。
 水泳クラブに入れられたのも、体を鍛えろ、とかいう単純な理由だったし、泳ぐのが嫌いではなかったから今まで部活だってなんとなく続けているというだけで……。
 哲也のように水泳関係に進みたいとか、熱意を持っているわけではない俺にとって、夏休みの部活も合宿も、実は面倒くさいだけである。
 そんな本心は、哲也や部活の皆に知られたらとんでもないことになりそうだから、封印してあるけれど。
 自分の薄茶色になってしまった髪と、哲也の強そうな真っ黒いツンツン頭を見比べて、俺は軽くため息をついた。
 

 
「おっまたせー、アキ! 水泳部、早かったんだな」
 校門で待っていた俺に、そばかすをくしゃくしゃにゆがめて笑った奈央は、日焼け止めなんて塗ってもいないのか、というぐらいにまた真っ黒に焼けていた。
 まあ、陸上部の奈央にとって、日差しは切っても切り離せないものだから、仕方がないんだろうけど。
「おお。来週から合宿だから、適当に切り上げて週末休んどけってさ」
「そっかぁ、もう合宿か。うちは再来週から。じゃあすれ違いになっちゃうかもな」
 からっと笑う奈央のヤツは、淋しいなんて思ったりするんだろうか。
 なぜだか急にそんなことを考えたりしてしまう頭を、俺はあわてて振った。
「どうしたんだよ、アキ」
「いや、何でも。早く行こうぜ、デート、デート!」
 ふざけて肩に手を回したりしてみたら、早速脇腹に奈央の強烈な肘突きが入った。



 立ち上る線香の匂いと静かなお寺の雰囲気に、俺たちはいつの間にか黙っていた。
「ほら、母さんが好きだった一丸堂のお饅頭だよ」
 ここへ来る途中で買ってきた饅頭を供えた奈央は、しゃがんだまま手を合わせた。
 瞳を閉じて、何を想っているんだろうか――なんて考えつつ、俺も同じように手を合わせる。
 おばさんが亡くなったのは、こんな風に天気のいい日だった。
 夏まっさかりの、雲一つない青空――そんな気持ちのいい天気とは裏腹に、初めて奈央が大粒の涙を流したのを見たんだ。
 それまではいつも弟たちと一緒になって、泥だらけで走り回って、小笠原家の男四兄弟とまで近所に言われるぐらい、奈央はやんちゃで。
 ガキの頃から一緒に育った俺も、まるで男の友達みたいな気軽な気分で笑いあってた。
 大声で泣く弟たちの後ろで、必死で声を抑えてはいたけれど、震える手を握り締めて、静かに泣いてた。
 そんな奈央がすごく弱く見えて、初めて女の子に見えて、急に思ったんだ。
 ああ、奈央は俺が守ってやらなきゃいけないんだ、って――。


 おばさんと無言の対話を終えた奈央と、一緒に墓石を磨きながら、俺はふと別のことも思い出していた。
 そうだ、奈央が自分のことを『あたし』と言うようになったのも、おばさんが亡くなったあの日からだった。
 女の子らしくしなさい、そう口を酸っぱくして言っていたおばさんの言葉にも、奈央は気にせず『俺』と言い続けていたのに。
 奈央なりに、おばさんの想いを汲みたかったのだろうか。
 とはいっても、家事などをこなすようになったこと以外では、奈央は変わってはいない。
 あいかわらず、面倒だからと髪も短くしたまま、化粧っ気一つもなくて、可愛い顔をしているのに日焼けもし放題である。
 奈央には、好きな男とかいないんだろうか――。
 急にそんなことが頭に浮かんで、俺はぎくりとする。
 今まで、まさかと考えもしなかったことなのに、なぜその時そう思ったのか。
 嫌な予感のようなものを、俺は無理やり頭から追い出して、奈央にいつも通り話しかけていた。
 まさか、俺たちの関係が変わるはずもない、そんなおかしな自信のような気持ちが後押ししていたのかもしれない。
 ずっとこのまま、二人でいられれば別にいい――俺の穏やかな気分がこの後すぐに崩れることになるなんて、俺はこの時、夢にも思っていなかったんだ。







 奈央から急な呼び出しが入ったのは、その日の夜だった。
 どちらかの家でもなく、近くの公園に呼び出されたことで、どこかおかしいとは思ったんだ。
 それでも、まさかそんな事態が待ち受けているとは思わなかったから――俺は気楽な気分で公園へ出向いた。
「あのさ……あたし、付き合ってくれって言われたんだ」
 そう言われた時ですら、俺は首を傾げていた。
「付き合ってくれって……どこに? っていうか、誰に頼まれたの」
 間抜けな返答に、奈央は苛ついたように、髪の毛をくしゃくしゃ掻いた。
「あ〜だから、そういうんじゃなくってさ……かっ、彼女になってほしいって言われたの!」
 しばらく目を丸くしていて、ようやく俺は心臓が嫌な汗をかきはじめるのを感じていた。
「――誰に?」
 硬くなった俺の声に気づいているのか、そんな余裕もないのか、奈央は混乱したままの顔で答えた。
「ほら、水泳部の三田ってヤツ」
「――は?」
 まさか、という名前に、俺はしばらく声も出せなかった。
 奈央と哲也とは、俺を通してぐらいしか付き合いもなかったはずで――そりゃあ、何度か一緒に遊んだことぐらいはあるけれど、まさか哲也がそんな気持ちでいたなんて……。
 予想外の人物に固まっていた俺を困ったように見ていた奈央は、ベンチから立ち上がって、まるで動物園の熊状態でぐるぐる歩き回り出す。
「なんか……今度の合宿で、お前のタイム絶対抜いてみせるから、とかってさ。それで、自分が勝ったら付き合ってほしい、とか言うんだぜ?
 もうびっくりしちゃって声も出ないっていうか、思わず笑っちゃったっつうの!」
 奈央の乾いた笑いが、夜の公園に空しく響く。
 その空気に耐えられないかのように、奈央は続けた。
「だけど――本気だって、笑うなって言われて……ずっと前から好きだったんだ、って。なぁアキ、どうしたらいい?」
 本当に、ただ混乱しているのだろう――子犬みたいに無垢な、頼りない目で見上げられて、俺は言葉が出なかった。
 なんだよ、それ――。
 そうやって、笑い飛ばせばいいのか。それとも、怒れって言うのか。
 何も答えが思い浮かばなくて、やっと気づいた。
 俺自身も、相当混乱しているんだってことに。


「どうしたらいいって……奈央はどうなんだよ」
 考える前に口に出てしまった低い声に、奈央はびくりと肩を震わせた。
「どうって……どういう意味?」
 いつもの奈央じゃないみたいな小さな声で聞かれて、俺は思わず立ち上がっていた。
「哲也が好きなのかよ?」
 ケンカ腰みたいな声が出てしまったことで、一気に雰囲気が悪くなったのがわかる。
 でも、なぜだか苛立ちが抑えられなかった。
 奈央は、びっくりしたような顔で俺を見ていた。
「あいつが好きなら付き合えばいいし、嫌いなら断ればいいだけの話だろ? なんで俺に言うんだよ……どうしたらいいって、俺に聞いてどうするんだよ?
 俺が付き合えって言ったら、付き合うのかよ?」
「そ……そんな言い方しなくたっていいだろ? なんでお前がそんなに怒るんだよ!」
 顔を赤くして叫び返してきた奈央に、俺もつい睨み返してしまう。
「怒ってなんか――どうしたらいいかとか、お前が聞くからだろ?」
 俺の言葉に奈央はついに泣きそうな顔をして、それでもきっと俺を見上げた。
「だって……こっ、告白とかされたの生まれて初めてだし、どうしたらいいかわかんなくて――そしたらアキの顔が浮かんだから、アキに相談しただけじゃん!
 もういいよ――お前に聞いたあたしが悪かった! 自分で勝手にするよ!」
 本当に怒った顔をして、俺に背中を向けた奈央の腕を、俺は無意識に掴んでいた。
 またその背中が小さく見えて、急に不安になったんだ。
「離せよ! もうお前に相談なんかしないから!」
「なんで――俺の顔が浮かんだんだよ」
 自分でもわからないままに出てきた質問を、奈央に投げつける。怒りでつりあがっていた奈央の眉が、少し下がった。
「なんでって……」
 口にしてから、奈央は困ったようにさまよわせていた視線をそらした。
「奈央」
 答えを急かした俺の声に、苛立ったように奈央は振り向く。
「なんで、なんて――そっ、そんなのわかんないよ!」
 そして走り出した奈央の白いポロシャツの背中を、俺はなぜか追いかけることができなかった。









 それから奈央とは会わずじまいで週末を終えた俺は、結局合宿に出発してしまった。
 たったの四泊五日だというのに、なぜかとんでもないことをしてしまったような気にさえなっていたんだ。
 奈央とケンカめいたことをしたのは、もちろん初めてではない。
 いつもの大したことないケンカぐらいなら、自然にどちらからともなくまた元通り話し始めたりして、何も意識することなんてなかった。
 それこそ幼なじみだから、ほとんど家族みたいな感覚だったから。
 だけど、今回はその『原因』が問題なんだ――。
 元凶、ともいえる男を目にして、俺は思わずため息をついていた。
「よう、秋人! 張り切って泳ごうぜ!」
 プールに入る前の軽いランニングと筋トレを終えて、言葉通り張り切った顔で歩み寄ってくる哲也。
 その元気な笑顔がいつものものであるはずなのに、どこか含みがあるようにすら思えてくるのは――今まで知らなかった、奴の気持ちのせい、だよな……。
 複雑な思いの俺の肩を叩いて、哲也は気にせず柔軟を始めた。
「じゃあ各自基本のメニューから! 柔軟終わったやつから、どんどん泳いでいけよ!」
 笛を吹いてから、両手を打ち鳴らしている顧問。その隣にいた部長が、目が合った俺に微笑みかけてきた。
「黒木、今度の十六校戦に向けても、お前には期待してるからな! この合宿でタイム縮めていこう!」
「は、はい――」
 満面の笑みで言われて答えながらも、俺は思わず哲也を見ていた。
 ちらりとだけ俺を見た後、哲也は帽子を被りなおしてから、滑るように水に飛び込んでいった。


 泳ぎ始めたら、頭の中からは雑念も何もかも消えていく。
 そこにあるのは自分と水だけで――透明な世界の中を、ただただ、かき分けて進んでいく気分だ。
 苦しいのと同時に心地いい。いつまでもそんな感覚を味わっていたいような気にすらなる。
 これが、泳ぐのが好きだってことなんだろうか……。
 練習を終えた時の爽快感は、長続きはしなかった。
 無心で泳げていた時とは違って、また考えることを思い出してしまうから。
「秋人、話があるんだ」
 案の定、というべきか、夕食後、みんながトランプやらに興じている間に哲也が俺を呼んだ。
 東京を離れた山の中――プールでは特に気づきもしなかったけど、やはり夜の空気は少し涼しかった。
「あのさ――俺……」
 宿舎前の自動販売機で、ジュースなんかを買ってくれた後、哲也はもぞもぞしながら話し出した。
 黒いツンツン頭をしきりに掻いて、照れたように頬を染めたりしているそんな顔は、いつも明るい奴とは別人みたいで、気持ちが悪いくらいだった。
「――聞いたよ。奈央のことだろ?」
 沈黙に耐え切れなくて、俺は思わず先に口を開いていた。
 驚いたように顔を上げた哲也は、すぐに納得したような、がっかりしたような表情を浮かべた。
「……そっか。そうだよな。もちろん話すよな。お前には――」
 日焼けして盛り上がった肩を少し落として、哲也は地面を眺めている。
「それで……奈央ちゃん、何だって?」
 頼りなげな目で、それでも真剣な顔をして俺を見つめる哲也。なぜだかその頬を殴り飛ばしたい衝動が浮かんだ。
 ――何を考えてんだ、俺は。
 危うく頭を振って、冷静になろうと努める。
 奈央ちゃん、だなんて、そんな風にこいつが奈央のことを呼ぶのは、いつもと同じだっていうのに。
 俺は、あいつの『彼氏』でも何でもないんだ。
 自分で考えてから、その言葉が自分の心に突き刺さる。
 そうなんだ、俺と奈央はただの幼なじみで、こいつが奈央のことを好きになるのに、俺は口出しなんてできる権利もないじゃないか――。
 それなのにこんな風に腹を立てたりして、奈央を独占しようとしてるなんて……。
 自分の中の嫉妬心に戸惑いながらも、俺はなんとかそれを表に出さないように、唇を噛んだ。
「別に――自分で決めるってさ」
 そう答えるのが、精一杯だった。
 途端に顔を輝かせた哲也は、俺の手前か、少し自重するように頬に手をやった。
「悪い。お前の前で喜んだりして……でも俺にもまだ望みがあるんだって思って、ついさ」
 その言い方に顔を上げた俺を見て、哲也が訳知り顔で笑った。
「わかってるよ、お前の気持ちぐらい。ただの幼なじみなんて言っても、奈央ちゃんを見る時は、すごく優しい顔してるしな」
 同じ恋する男として当然だろ、なんて鳥肌モノの言葉を付け加えたりした哲也に、俺は何とも言えずに俯いた。
「……気づいて、たのか」
「ああ。なんか、抜け駆けみたいなことしてずるいかな〜とは思ったんだけどさ、でもこのまま自分の気持ち、伝えないで終わりたくないから――」
 明るい口調のままで、俺をまっすぐに見る哲也の目には、しっかりとした意思が込められている。
 目をそらすことができなくて受け止めた俺に、哲也は一瞬だけ、泳いだ後に見せるような強い瞳を向けた。
「俺、お前のタイム、抜いてみせるからな」
 それだけ言った後、哲也はいつもの顔に戻って、俺に手を振った。
 宿舎に入って、ふざけあう声に混ざって聞こえる哲也の笑い声を、いつまでも俺は立ち尽くしながら聞いていた。



 奈央はどうしているだろうか――。
 その晩、すっかりいびきの大合唱となった部屋の中で、俺は一人携帯を開いていた。
 夜も更けて、騒いだ後の体は、昼間の疲れからの休息を求めているはずなのに、それでも頭は冴えている。
 メールも着信も入っていない。
 当然のことを確認して、それでも気持ちが落ち込んだ。
 ひそかに保存してある写メールの、奈央の笑顔。
 疲れた時なんかに、いつも開くその画像――まぶしいくらいに笑う幼なじみの顔が、どうしようもないくらいに恋しくて、たまらなくなった。
 もう夜中の一時になろうとしているのに、思わず奈央の番号を押しそうになる。
 時間を気にするのと同時に頭に浮かぶのは、哲也の言葉。
 真剣に、奈央のために頑張ろうとしている姿は、正直まぶしくすら見えた。
 水泳に対する姿勢も、奈央への想いも、しっかりと自分で考えて進んでいこうとしていて――負けているような気がした、今のままでは。
「このままじゃ、いけないんだ……」
 そう呟いた瞬間、着信音が静かな部屋に鳴り響いた。
 あわてて見た画面には、まさに心を占めていた人物の名前。
 廊下に出てから、急いで通話ボタンを押した。
 なぜか騒ぐ心臓を抑えて、なんとか平静な声を出した。
「もしもし……奈央?」
『あ、ごめん。こんな時間に――っていうか、あの、間違えてボタン押しちゃってさ、えっと……』
 いつもよりワントーン高い奈央の声に、俺は知らず微笑んでいた。
「いいよ、寝てなかったし」
 ごまかすように咳払いする奈央は、きっと真っ赤な顔をしているんだろうとにやけながらも、声には出さないように気をつけた。
 だって奈央は意地っ張りでプライドが高いから……自分から、気になってかけたなんて言えないんだ。
 奈央の気持ちが嬉しくて、変わらない幼なじみが愛しくて、俺は普通を装った。
『……どう? 合宿。うまく行ってる?』
 心配そうな声が、胸に響いた。
「うん。泳ぎまくってるだけで、別に部活の延長だよ」
 本当は結構ヘトヘトだったけど、俺も平気そうな声を出した。
『――そっか』
 少しほっとしたような奈央の返事。しばらく何気ない会話を続けた後に、俺はふと黙った。
 暗いロビーの窓から見えた、満天の星空。
 都会じゃなかなか目にすることができないその輝きに、俺は言葉を奪われたんだ。
 そして思うのは、奈央に見せてあげたかった、なんてこと――。
『アキ? どうかした?』
 奈央の声が、心地よく耳に届く。会いたい、なんて、口にはまだできないけど――。
 俺は自分の胸に手を当てて、暗闇を強く見据えていた。
『……アキ?』
 不安そうに訊ねる奈央に、俺は決意を固める。
「奈央」
 名前を呼んで目を閉じたら、まるで隣に奈央がいるような気がして。
 どきどきしながら、俺は言った。
「俺――絶対、負けないから」
 奈央が何か言う前に続ける。
「哲也にタイム、抜かせない。あいつにだけは……」
 奈央が息を呑んだような気配が伝わってくる。
 ああ、これでもう後には引き返せない。
 そんな弱気な思いを自分で打ち消して、俺は笑った。
「だから、待っててくれ――」
 何を、とも、なぜ、とも、奈央は言わずに、ずっと黙っていたけれど――しばらくして電話の向こうで聞こえたかすかな返事に、俺は心底嬉しくなったんだ。











 勢いよく水の中を進んでいく。ひたすら前を前を目指して。
 自分がたてる水飛沫、無音の水中と時折顔を上げた外の世界との不思議な温度差が、唯一泳いでいることを思い出させるくらいに、俺は集中していた。
 今まで感じなかった、いや、あえて感じないようにしていた気さえする。
 自分がどれほどに水泳が好きなのかを。
 これが『好き』という感情なのかと、やっと自覚したというべきか。
 気づいてしまえば止められない。もう負けたくない、誰にも。
 奈央に対する想いと同じだ。
『好き』であるのはわかってた。でも、正直甘く見てたのかもしれない。
 自分自身を――自分の中でこんなにも強く育っていた気持ちに、気づかない振りをしていたんだ。
 幼なじみ、という便利で心地いい枠から外れることが怖かった。ずっと築いてきた関係を壊したくなかった。
 それならば、想いなんか伝えずに、このまま一緒にいられるほうがいいと思ってきた。
 でも、そうじゃなかったんだ。
 そんなに弱い想いじゃなかった。
 絶対に誰にも渡したくない。奈央の笑顔は、俺だけのものであってほしい。
 そうわかってしまったから、俺はなんとしてでも負けるわけにはいかないんだ。
 哲也にだって、誰にだって――。
 白い壁に手をついた時、歓声が上がった。
 荒い息もそのままに、隣のコースを見る。
 そして見えたのは、一息遅くゴールして悔しそうに帽子を脱いだ、哲也の顔だった。





 最後の練習、タイムトライアルを終えて、五日間の合宿は幕を閉じた。
 帰りのバスに乗り込む直前、俺は待ちきれないで携帯を取り出していた。
「ああ、もしもし――奈央?」
 電話の向こうでは、どこか緊張の気配が伝わってくる。
 奈央は、どんな気持ちでこの電話を取っているんだろう。
 そう考えると、携帯を持つ手に汗がにじんだ。
「勝ったよ、哲也に」
 簡潔に、一番伝えたかった事実を言葉にしたら、奈央がほっと息をつく音が聞こえた。
『そう――なんだ』
 ただの呟きにも似た返答に、俺は続けた。
「うん、自己最高タイム。部長がさ、今度の十六校戦でそれに上回るタイム出せって大騒ぎだよ」
『へえ、すげえじゃん!』
 やっと笑いあえた後、俺は自分の呼吸を整えた。
 ここからが、俺の本当の勝負だ。
 そんな気持ちで瞳を閉じる。
 奈央のかすかな息遣いだけに集中して、息を吐いた。
「だからさ――奈央に、見に来てほしいんだ」
『……え?』
 お互いの応援に行ったりすることなんて、よくしてきたことなんだけど――今度ばかりは意味が違う。
 そのことに奈央は気づいているのか、俺の言葉に静かに耳を傾けているようだった。
「俺、ベスト出せるように頑張るから。そしたら――伝えたいことがあるんだ」
 雲一つない青空に恥じないように、俺は上を向いてはっきりと言った。
「これから水泳の道に進むためにも、俺自身にとっても、大事な大会になると思うから……」
 まっすぐに、奈央の心に届くように、強い想いを声にのせる。
 少し黙っていた奈央が、電話の向こうで笑った気がした。
『――わかった。絶対見に行くから、情けない姿なんか見せたら、承知しないからな!』
 いつもの調子で、まるで背中でも叩くかのような勢いで返ってきた奈央の答えに、俺はやっと笑顔になれた。
 止まっていた蝉の声が、山中に響き出す。
 晴れた空が、俺と奈央をつないでいるような、そんな気持ちがした。
 


 
 
 
 
 END
 

  


 


 

 

  

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