アイスミルクな午後

  


 

 
 どうしてなんだろう、ふと足を止めてしまったのは。
 日曜日の昼下がり、デートにはもってこいのオープンカフェ。
 こんな三十路女が一人で入るのはちょっと気が引けるくらい、お洒落で洗練された雰囲気。
 ああ、早く帰らなければ。突然取材で京都に行きたい、なんていう我侭を許してもらって、締め切りも迫ってて、これ以上のんびりしてたら申し訳ない。
 そう理性は訴えるのに、いつの間にか目は店の前に置かれた可愛らしいメニューボードを読み、足はウェルカム、と書かれたマットを踏み越えていた。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
 黒い制服に白いエプロンをした愛想のいい女の子が迎えてくれて、私は無言で頷く。
「禁煙席と喫煙席、どちらになさいますか?」
 小首を傾げて訊ねられ、私はスーツのポケットを無意識で探り、箱に残った最後の一本を吸うか吸わないか一瞬迷った。
「あのう……」
 困ったような女の子の声で、我に返る。
「ああ、ごめんなさい。外のテラス席は禁煙かしら?」
 先ほど通りから見えた明るい日の差す空間になんとなく座りたくて、聞いてみることにした。十代のバイトらしい女の子は、一瞬戸惑ったように私とテラス席を見比べた後、ふっと笑う。
「え、いえ、特にそう決まってるわけやないんですけど……」
 自然に出てしまったらしい、可愛らしい京都弁のイントネーション。
 その言い方に少し含みがあるような気がして、再び外を見た私は、すぐに彼女の言いたいことを察した。
 テラスのテーブル席に腰掛けるのは、皆若いカップルばかり。揃って仲良さげに肩を寄せ合っている。
 あの中に入るつもりなのか、とそう聞きたいのだろう。
 禁煙なら、吸わなくてもいい――そう思っていた心はどこへやら、テラスから目をそらして、喫煙席を、と言うつもりで口を開きかけた、その瞬間。

「どうぞ、ご案内いたします」
 優しい低音が、そっと割って入ったのだ。
「あ、店長――あの、でも……」
 困ったような上ずった声に、微笑んだのは背の高いウエイター。
 彼女の言葉からすれば店長だそうだが、まだ二十代後半ぐらいにしか見えない、涼しげな印象の青年だった。
 白いシャツに、腰から下がる黒いエプロンが他の店員の制服とは違って、やはりどこか落ち着いた雰囲気に見えた。
「ええから、君はあちらのお客様を頼むわ」
 同じ京都弁なのに、彼が話す低音は、なぜか色気を帯びて優しく響いた。
 次に入ってきた客にお辞儀をしてから、彼はさりげない仕草で女の子の前に回ると、私に目線を移す。思ったよりも大人びた、静かな瞳が微笑んで、私を無言でテラス席へ案内してくれた。カップルが並んだテラス席の端、一つ空いたテーブルにはちょうど街路樹が日陰を作ってくれていて、かけていたサングラスをはずした私に、彼はちょうどよく汗をかいた冷たい水のグラスを運んでくる。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 ケーキセットがずらりと並んだ甘ったるいメニューの上に、そっとドリンクメニューを置いてくれたその手際に私は思わず顔を上げた。
 甘い物が苦手なことをまるで知っているのかと錯覚するぐらい、見事な動作。
 いかにも仕事で来てます、というパンツスーツの女だからなんだろう。きっと単なる偶然――。
 そう思いつつ、あきらかにさっきのバイトの女の子とは違う接客手腕に、私は年甲斐もなく少し傷ついた気分が浮き上がるのを感じていた。
 いい年の女が、こんなことぐらいで何を考えてるんだか。
 自分でもわかってるけれど、いい気分になることぐらいは自由じゃないの、と私はドリンクメニューを目で追った。
 いつもならアイスコーヒーを迷いもなく頼むところなのに、なぜか私は彼を試したくなっていた。この人には、私はどう見えるんだろう、なんて馬鹿な疑問。
「お勧めは――何かあります?」
 笑みを秘めた真面目な顔で訊ねてみたら、彼は困った顔をする――かと思ったら、全く動揺することもなく、端正な顔に優しい微笑を載せてくれる。
「そうですね……オーソドックスに本日のブレンドコーヒーから、
 ラテにオレにエスプレッソ、色々取り揃えてますけど――お客様には、ミルクティーはいかがでしょうか?」
 義務的な応対ではない、いたずらっぽい色さえ浮かべた瞳が私を映していて、予想外の言葉に私は目を瞠り、首を傾げてみせた。
「どうして……そう思うの?」
 ほんのりレモンの香りのする水を一口飲んでから訊ねると、彼は思いのほか可愛らしく瞳を細めて私を見つめ、笑い返した。
「なんとなく……少しお疲れのご様子でしたんで、コーヒーの苦味の入らへん、優しい紅茶をご所望したはるんやないかと。ジュースやフレーバーティーやとお客様には子供っぽすぎるように感じましたし」
 ところどころに入る京都弁のニュアンスが、ちょうどよく堅苦しすぎない提案として響く。接客に慣れているからなのだと、ただ、一人の客として丁寧に接してくれているだけだとわかっているはずなのに、なぜか心のどこかが少しあたたまる。
 まるでスーツの武装をはがされたような、大人の仮面の奥の無防備な自分を見透かされているような、不可思議な気恥ずかしさが表に出ないうちに、終わりにしようと私は笑った。ちょっとした気まぐれに付き合ってくれてありがとうと、そういう意味の笑顔。
「そう――じゃあミルクティーを……」
 ホットで、と言いかけた私の声に被さるように、テーブルに置いた携帯が無遠慮に揺れた。人工的なバイブ音が、その場に漂っていた和らいだ空気を台無しにした気がして、私は内心苛立ちながら画面を見る。表示されていた名前に思わず眉を寄せ、メールの文面に見入りかけて、慌てて彼を見上げた。
「あ、ごめんなさい。ミルクティーでいいわ」
「かしこまりました」

 本当はあまり紅茶は好きじゃない。でも付き合ってくれた彼の優しさに感謝を表しての注文。
 彼は最初と同じ静かな微笑で頷いて、その場を去っていった。
 私がどう見えているのか、なんてきっと決まってる。
 疲れた顔の三十路女。日曜も仕事で、デートの相手もきっといない、悲しい売れ残り女。
 若いウエイターと話なんかしてみたりして、可哀相だとでも思われているんだろう。
 さっきのバイトの子が言いたいことと同じことを、きっと誰でも考えるはず。その一部は当たってて、一部は外れてる、なんてね。
 携帯電話の画面に出た、元夫の名前。愛想のかけらもない、義務的な慰謝料の振込み連絡。
 今はそんなやりとりしかしない相手は、覚えているんだろうか。初めて出会ったのが、ここ、京都だったってこと。
 旅行で来てた学生同士、意気投合して付き合って一年、深く考えずに結婚して。
 お互いの存在に癒されて、満足して、幸せを語っていた頃もあったっていうのに――そう、ちょうどこのテラスにあふれる恋人たちみたいに。
 もう忘れた感覚を、遠い記憶を思い起こして、きっと少しセンチメンタルな気分になってただけ。
 街も人もどんどん新しく移り変わる。お寺や神社はずうっと変わらない思い出を蘇らせてくれるけど……。
 こんな風にこの懐かしい街の空気を吸ってみたって、時を過ごしてみたって、もうあの頃の自分に戻れるわけでもない。
 ただ、少し気分転換したかっただけなんだ、きっと。
 結婚にも失敗して、子供がいるわけでもなくて、仕事にも行き詰まってて、中途半端な自分をちょっとリセットしたかったのかも――。 
 注文したミルクティーが来たら、一息だけついたら、東京へ帰ろう。
 またいつも通りの毎日が始まる前に、一杯だけいつもと違う飲み物を――。
 私がそう思って、仕事用のノートパソコンを取り出した、ちょうどその時だった。

「お待たせいたしました。ご注文の、アイスミルクティーでございます」
 さっきの彼が、当然のように運んできてから、やっと私はホットだと言い忘れたことに気づいた。氷の入った紅茶というものが、私は特に好きじゃない。それを知る由もない彼には何の否もなく、初夏の日差しからすれば、アイスだと思っても仕方がない。十分わかってはいるのに、なぜか少しがっかりした。気の利いた接客が、やはり義務的なものでしかなかったのだと思い知らされたような、残念な気持ち、とでもいうべきだろうか。
「あ、あの……」
 言いかけて、気づいた。なぜ、店長である彼がわざわざ応対してくれるのだろう。
 そんな単純な疑問が浮かんだちょうどその時、他のバイトの学生らしき子が、店長、と駆け寄ってきた。
 何やらいくつか質問をした後、指示をもらって去っていったバイトくんをちょっと真面目な瞳で見送る彼。
 きっと接客以外の仕事が色々あるはずで、そんな多忙な人にこれ以上構ってもらうのも悪い気がした。せっかく考えて選んでくれたのだし、喉を潤すつもりで頂こう――そう決めた私は、彼に笑顔を返す。
「ありがとう。いただきます」
 ノートパソコンの電源を入れながら言った私に、彼も微笑む。
 そのまま立ち去るのだろう、と目線を落とし、執筆予定の短編に意識を移しかけた私は、彼がまだ動かないことに気づいて、また顔を上げた。
 きっと訝しげな表情をしていたんだろう。彼は瞳を細めて、優しく笑った。
「お仕事、お忙しいやろとは思いますけど――たまには何も考えんと、外でぼーっと青い空見んのもええもんですよ?」
「……え?」
 今までの接客口調とは少し違う、崩した彼の言葉。そんな風に話し掛けられたことにびっくりして、間抜けな顔をしてしまったかもしれない。
 彼は少し可笑しそうに笑ってから、慌てて表情を引き締めた。
「すみません。ちょっと気になったんで、思わず……ご気分、害されました?」
 どうやら思ったよりも年齢相応らしいお茶目な店長の態度に、私もつられて吹き出した。
「……いいえ。でも私って、そんなに疲れて見えます?」
 ちょっと情けなくなった私の問いかけに、彼は急いで両手を振った。
「あ、いや、そんな悪い意味とちゃうんです。ただ、もしお疲れやったら、うちの店で少しでも楽に休んで頂けたらええな、て。ちょっと甘くて、優しい味で、シャキッと冷たいもん飲まはったら、元気になってくれはるんちゃうやろか、ってそう思って……アイスミルクティー、もしかして嫌いでしたか?」
 申し訳なさそうに訊ねてくる彼に、私はしばらく答えるのも忘れて、無意識に冷たいグラスに触れていた。ほどよく冷えた、薄茶色の液体が私を待っている。

「……いいえ。大好きよ」
 つい、そう答えてしまった。
 ほっとした顔をする若い店長を見て、もしかして余裕に見えたのは精一杯の虚勢だったのだろうか、なんて考えが浮かんだ。
 白シャツの上からもわかる、かっちりとした広い肩と、細身のスタイル。
 整った容姿や落ち着きにだまされて、てっきり慣れた応対をしてくれたものだと感心してしまったけれど――
 本当は彼も内心緊張しながら私の好きそうなものを必死で考えてくれたのかもしれない、なんて。そう思ってしまったら、なんだか微笑ましくて、嬉しくなった。
「――ありがとう」
 本心から告げると、彼も嬉しそうに一礼して、また店内へ戻っていった。
「どうぞ、ごゆっくり」
 残された彼の優しい声の余韻と共に、アイスミルクティーを口に含む。
 甘く優しい味に、紅茶の渋みがほんの少しだけ残って、喉ごしは冷たくて――驚いたことに素直に美味しいと思えた。
 ……不思議。これも旅先で、いつもと違うような気がするだけだろうか。
 だけど確かに痛んでいたヒールの足元も、だるかった体も、何より重かった頭の中も、ほんの少し癒されたような――。
 白いシャツの背中を目で追って、私は一人微笑んでいた。

 ここは京都。
 歴史と伝統が残り、それでいて新しさも混在した優しい街。
 こんな小さな奇跡だって起こるのかもしれない。
 頑張れ、若い店長さん。
 ……頑張れ、私。
 ゆっくりとアイスミルクティーを飲みながら、私はノートパソコンに向かった。
 今思いついたアイデアを書きとめておくためだ。
 なんとなく新しい気持ちでまた日常と戦える気がしていた。
 午後の風がそっと私の髪を撫でていく。
 隣のカップルたちが入れ替わっていくのにも気づかず、キーボードを叩いていた。
 そして私はまだ知らない。
 テーブルに置かれた伝票に挟まれた名刺の存在を。
 アイスミルクな午後は、静かに過ぎ行く。

 

 Fin.

 


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