星と月の奇跡

  


 
 
 出逢った瞬間、思ったんだ。
 この人が、あたしの運命の人なんだって。
 だから、あたしは言ったの。
 きらきら光るプールサイドで、もっと光って見えた、彼に向かって。
 あたしのときめきを、この胸の高鳴りを伝える言葉を。
「あの……好きです! 私と、付き合ってください!」
 


 更衣室の、ロッカーの扉を開けながら、美夏ちゃんが笑った。
「いや〜長い付き合いだけど、さすがに今日は驚いたわ」
 黙って水着を脱いでいる私を横目に、美夏ちゃんは続ける。
「まあ、あれだけあっさり断られちゃ、あきらめも付くってもんでしょ! それにしても、いきなり告白する星奈(せいな)のほうが、びっくりだけどね〜。
 今見たばっかで、さすがに『好きです』はないんじゃないの〜?」
 明るい声で、一人話す美夏ちゃんは、私の反応がないことを気にするように、少し黙る。
 それでも黙々と、着替えを続ける私が、落ち込んでいるとでも思ったのか、うってかわって、優しく肩を叩いてきた。
「とにかく――元気出しなよ! 確かにかっこよかったし、溺れたところを助けてもらっちゃ、ポイントは高いけどさぁ。
 あんな冷たい断り方する奴なんだから、性格はどうだかわかんないよ? さっさと忘れて、またいい男探すのがいいって!」
 ねっ、と覗き込まれた時、ちょうど私は着替え終わったところだった。オフホワイトのワンピースを整えて、私はまだ少し濡れたままの髪を、簡単にまとめる。
 そして、顔を上げて、美夏ちゃんに笑った。
「ごめん、私、急いで行かなきゃいけないの。またメールするね!」
 私の上機嫌の笑顔に、驚いた美夏ちゃんが呼び止めるのが聞こえる。それでも私には、急いでやりたいことが――いや、やらなきゃいけないことがあるんだ。
 最後にもう一度だけ振り返って、手を振ると、私は急いでサンダルを履いて、更衣室を飛び出すのだった。
 目指すは、彼の背中――今日知り合ったばっかりの、私の好きな人。
 じりじりと焦げ付くような太陽が、まるで私を応援しているように見えた。



「またあんた? これって、ちょっとしつこいんじゃないの?」
 眉をひそめて、そう言い放った彼に、私は笑ってみせた。まだ荒い息を整えて、吹き出た汗を手の甲で拭う。
 一緒に歩いてた友達らしき人も、私のことをじっと見てる。こっちの視線は、ちょっと面白がるようなものだけど。
 気にせずに、私は彼を見上げた。大丈夫、追いつけただけでも、神様は私の味方だ。
「だって、あなたのこと、何も知らないくせにって言ったでしょ?」
 そう言った私に、彼は眉間の皺を一層増やした。
「それが何か? だって、事実だろ」
 不機嫌にそう返されても、私は笑顔を崩さなかった。だって、嬉しいのだ。彼の声が聞けるだけで。
「うん、事実。だから、まずは知ることから始めなきゃ」
「知るって、何を――」
 言いかけた彼に、私はお気に入りの、お花のついたかご型バッグから取り出した、生徒手帳を見せた。
「私、天野 星奈。百合丘女子高の一年です! 趣味は、読書とお菓子作り。あ、今度、何か作りましょうか? マドレーヌとパウンドケーキとどっちが……」
 迷う私を前に、彼は冷たく一言。
「それ、何」
「えっ、だから、自己紹介――相手のこと聞く前に、まずは自分のことを言うのが礼儀でしょ?」
 もっとよく見えるように、生徒手帳を近づける私から、彼は少し離れて、嫌そうな顔をした。
「誰もそんなこと聞いてないし、あんたのことなんか、知る気もないから」
 はっきりそう言う彼の腕を、横で友達がつついている。それでも、彼は気にする様子もなく、私から目をそらして、歩き出す。
 その広い背中を、私は必死で追いかけた。
「待って! せめて、あなたの名前……」
 あんまり走るのに慣れてない私は、さっきの全速力で力を使い果たしたみたいで、足がもつれてこけてしまった。
 その音に、一瞬だけ振り向いた彼は、何も言わずに、また背を向けた。
 助け起こしてくれたのは、彼の友達で、彼の視線で、あわてたように付いていく、その一瞬前――教えてくれた情報に、私は顔を輝かせた。
 やっぱり、神様は私の味方だ。
  


 白川学院高等学校――堂々と踊る文字を眺めて、私は呼吸を整えていた。
 今日ここに勇んでやってきたのは、もちろん、大事な計画のため。彼――杉里 月也(すぎさと つきや)くんを徹底的に調べよう、計画の。
 ものすごい暑さに、頭がちょっとふらふらするけど、それでも構わない。普段の私からしたら、考えられない行動だ。
 でも大丈夫、恋は女を強くするんだ!
「ねえ、星奈〜帰ろうよ。さすがにこれは、やりすぎだって!」
 心配性の美夏ちゃんが、私の腕を引きながら小声で言う。
「だめだよ、まだまだ情報が足りないの!」
 月也くん情報を書き連ねたメモと、私はにらめっこする。
 夏休み中とはいえ、部活動で登校している生徒たちに何度か訊ねて、得た貴重な情報だけど、まだまだ足りないんだ。
「ようし、またまた突撃、行くぞ〜!」
 あれ、あれれ? ところが、踏み出そうとした私の足は、なんだかふらついて、視界がぐらりと回りだす。
「あっ、ちょっと星奈! きゃ〜! 星奈っ!」
 背後で響いた美夏ちゃんの悲鳴を最後に、私の意識は途絶えた。


 白いベッド、白いカーテン、白い壁……視界を埋め尽くす白一色に、私はぼんやりと瞬きをした。
「星奈、気づいたの? 大丈夫?」
 心配そうに私の元へやってきたのは、美夏ちゃん。そしてその隣に腰掛けていた人物に、私は大きく目を見開いていた。
「あっ! あの時の……」
 思わず指差して叫んでしまった私に、その人は苦笑する。
「どうも、俺、藤田 純平。一応、月也の友達やってます」
「星奈が倒れた時、困ってたら、偶然通りかかって、保健室まで運んでくれたんだから。感謝しなさいよ!」
 美夏ちゃんの叱り付けるような顔と、爽やかに微笑んだ彼を見比べて、私はにっこり笑った。
 そう、だってやっぱり運命は私の味方だったんだ。まさに救世主と出逢った私は、ついに最強の作戦実行を果たすのだった。
 
 

 
「今日から、短期バイトに入りました! 天野 星奈です! よろしくお願いします!」
 気合いを入れて叫んだ私の自己紹介に、皆さんは笑顔で拍手してくれた。ただ一人を除いて。
「なんで……あんたが、ここにいるわけ?」
 早速言われたとおりに、本の積み替えをやっていた私は、後ろからかけられた冷たい声に、満面の笑みで振り返った。
「え、だから、短期バイトに入ったんです」
「それはさっき聞いた。そうじゃなくて、何でわざわざ俺のバイト先に来るのかって聞いてんの!」
 苛ついたように聞かれても、私は全然平気だった。
 だって、こうしてまた会えたんだもん。
 やっぱりかっこいいな〜なんて、彼の自然な茶色の髪とか、涼しげな瞳とか、ちょっと冷たい感じの口元だとかを見つめていた私に、月也くんは眉を吊り上げた。
「人の話、聞いてんのかよ!」
「あ、はい。えーと、それはもちろん、月也くんがいるからです!」
 元気よく答えた私に一瞬たじろいた月也くんだったけど、すぐに気を取り直したように冷たい顔を取り戻した。
「ふーん……ところで、誰から聞いたの、それ。それになんで、俺の名前まで知ってるんだよ」
「あっ、そうそう、名前だけじゃないですよ。ほら!」
 持ち歩いている月也くんメモを取り出して、見せる私。
「杉里 月也くん。白川学院高校の二年三組、成績優秀、スポーツ万能だけど、もったいないことにクラブ活動はしていない。
 夏休みは、午前中は駅前の本屋でバイトで、午後からは塾へ通う毎日。あ、それから、現在彼女なし! ねっ? 完璧でしょ?」
「だから誰がこんなことを教えたんだって聞いてるんだよ!」
「えーと、主に藤田くん情報で、私も現地で調べた結果です。これで、何も知らないくせに、とは言えないでしょ?」
 得意げに胸を張った私に返ってきたのは、ものすごく冷たい目だった。
「っていうか、ここまでするか、普通……あんた、立派にストーカー寸前なんだけど」
 じとっと見下ろされても、私は全然平気。だって、これって、立派な会話だもん!
「大丈夫、迷惑はかけませんから!」
「十分、迷惑だって――」
 にっこりと言い切った私に、月也くんが声を荒げそうになったその時、お客さんがやってきて、その日の会話はそれでおしまいになった。
 ようし、今日から張り切って、頑張るぞ!



 そして始まった、私の『月也くんと、同じバイトで急接近大作戦!』は、順調に進んでいる。
 と、言いたいとこなんだけど、実はあれから二週間。
 残念なことに、月也くんと接近する時間すら、あまりなかった。
 だって、だって、この本屋、広すぎる!
 私の心の悲鳴は、遠くでレジに入っている月也くんにはもちろん届くはずもない。
 大きなターミナル駅だけに、わりと流行っている本屋で、だからこその夏休み限定短期バイトが必要なくらい、店員も多い。
 まだレジを任せてもらえない私は、ひたすらあちこちの本の整理だとか、在庫のチェックだとか、そういう作業をやらされていたりして。
「はぁ……お、重い……」
 倉庫に積まれていた本の束の中から、指示されていた雑誌を見つけた私は、店内まで、ふらふらで運ぼうとしていた。
 いつもは男の子のバイトさんがやってくれている作業だけど、今日は多忙日らしくて、私にも容赦なく回ってきたのだ。
 いくら雑誌とはいっても、束になると重くて、もともと力仕事も苦手な私は苦戦していた。
 倉庫はクーラーも効いてないし、連日の暑さで、私は結構弱っていたんだ。


「あっ」
 思わず手が滑って、後悔するも遅し。
 店内まであと一歩というところで、私は雑誌をばらまいてしまった。
 あわてて拾う私は、ふと足元が影になって、振り返った。
 なんと、そこにいたのは月也くんだった。私の後ろで、散らばった雑誌を黙々と拾ってくれていたのだ。
 拾い終わった雑誌を抱えて、私は月也くんを見上げた。
 もちろん、お礼を言うために。
 でも月也くんは、まるで先回りしたかのように、言い放ったんだ。
「言っとくけど、別にあんたのためにやったんじゃないから。これ以上、失敗繰り返されても迷惑だし」
「あ、ご、ごめんなさい……」
 慣れないバイトで、色々とミスをしてしまっていたことを、知られていたんだと、恐縮する私を前に、月也くんは目をそらして、腕組みをした。
「あんたさ、もう、無理してバイトすんのやめたら?」
「ど、どうして――?」
 意外な言葉に、驚いた私を見下ろして、月也くんは続けた。
「あんたがどれだけ頑張ろうと、無駄だから――俺、あんたに興味なんか、これっぽっちもないし、これから先、持つこともないと思う。
 だから、期待されても困るし、むしろ、迷惑なんだよ」
 月也くんの瞳には、目を見開いたままの私が映ってる。でも、映ってるだけで、彼は一切見てもいないように思えた。
 だけど――。
 立ち去ろうとした、月也くんの背中を、私は追いかけた。
「私、あきらめません! だって、私、月也くんが好きだから――」
 私の言葉に、月也くんは振り返りもせず、そのままレジのほうへと戻っていった。
 全てを拒否するような、その背中を見つめながらも、私は不屈の闘志に燃えていたんだ。
 だって、私には、とっておきの情報が、まだあるんだから――。


 
 ついにやってきたその日。
 バイトを終えて、私はなんとか月也くんのもとへ走った。
「あっ、あの! 待って月也くん!」
 裏の社員専用駐輪場で、自転車を出していた彼は、私の剣幕に驚いたように動きを止めた。
 いつもの冷たい表情を、私はどうにかして動かしたくて、笑顔を浮かべる。
 そして月也くんのほうへ、手にしていた箱を掲げてみせた。
「誕生日おめでとう! これ、プレゼントのつもりなの。よかったら受け取って――」
 言いかける私に眉をひそめて、月也くんは視線をそらした。
「いらないよ」
「で、でも、私――せっかくの誕生日だからと思って……」
 必死に追いかける私に、月也くんは苛立ったように目を向けた。
「いいかげんにしてくれよ……別にあんたには関係ないことだろ?」
「関係なくなんかない! だって、好きな人の誕生日だもん! お祝いしたいと思うのは、当然のことでしょう?」
 思わず叫んだ私を、月也くんは睨んだ。
「大体、俺の誕生日なんて、めでたくもなんともないんだよ……そんなに嬉しそうに、祝ってもらうような日じゃないんだ!」
 今までの冷たい顔が嘘のように、苦しみや悩みがたくさんつまったような月也くんの顔。
 私は驚きながらも、なんだか――嬉しかった。初めて、見せてくれた、本当の顔だったから。
「例え、月也くんがそう思ったとしても、私はこの日に感謝したい。だって、この世に月也くんが生まれてきた日だから。
 私にとって――大好きな人が生まれてくれた、すごく大事な日だから……」
 微笑んでそう告げた私を、月也くんは何ともいえない瞳で見つめてた。
 その中に揺らいだ一瞬の光は、すぐに隠されて――また意地悪な顔で、私を見たんだ。
「だから……好きだ、好きだって、俺の何を見て言ってるんだよ? 俺はあんたが思うほどいい奴でもないし、優しくなんかない。
 会ったばっかりで、話もろくにしたことないし、お互いのこと、知りもしない。そんな状況で、本当に好きになんてなれるわけないだろ!」
 吐き捨てるように言った月也くんに、私はなおも笑った。

「出逢ったばっかりじゃいけないの?」
「え……」
 戸惑ったような月也くんの瞳をまっすぐ覗き込む。
「会ってから、時間をかけなきゃ好きになっちゃいけないの? 何もわからなくても、好きになることだってあると思う。
 だって、恋って、理屈じゃないでしょ? 少なくとも、私はわかった――月也くんが、私の運命の人だって。ううん、感じたの。この人が好きだ! って。
 それに、月也くんは自分が思ってるほど、冷たい人じゃないよ。本当は優しいのに、わざと冷たくしてる。自分が傷つきたくなくて――先に自分から冷たくしてるんだよ。
 優しい自分を、心の中に閉じ込めてるだけ」
「な……なんで、お前にそんなこと――」
 たじろぐ月也くんの胸の中に届くように、私は想いを込めて微笑んだ。
「だって、私もそうだったんだもん。昔、私苛められてて――あんまり嫌なことがあると、人って気持ちに蓋をしちゃうじゃない?
 それで、私は笑うのも、人に期待をするのもやめた時期があったの。でも、そんな私を変えてくれたのは、美夏ちゃんだった。
 ちゃんと人を信じることを、もう一度教えてくれたんだ。だから、私はまた笑えるようになった――それで、私思ったの。なんとなく、月也くんも私と一緒なんじゃないかって。
 もしそうなら、私はあなたに笑ってほしい。本当の自分を、素直に出してほしい。そう思ったから……」
 私が話すのを、身じろぎもせずに聞いていた月也くんに、そっと近寄る。
 笑顔でプレゼントの箱を差し出した私を見て、我に返ったように月也くんは叫んだんだ。
「やめろ……お前と一緒にするなよ!」
 苦しそうに瞳を閉じて、私を払いのけようとしたその手は、白い箱に当たった。
 私の手から、音もなく落ちたその箱は、道路の真ん中に、転がって――無残にもつぶれた中身をあらわにしたのだ。
 甘い物が苦手な月也くんが、唯一好きだと聞いた、チーズケーキ。
 チョコペンで心を込めて描いた、星と月の模様と、ハッピーバースデーの文字は、かろうじて見える程度にひしゃげていた。
 
 


 やっぱり、だめだったのかな……。
 運命だって、一人だけが思ったんじゃ意味がない。
 絶対に振り向いてもらうんだ、そう心に決めてた私も、つぶれたケーキの箱を手に、途方にくれていた。
 拾い集めて、ため息と共にゴミ箱へ投げ込んだ私は、込み上げてきた涙を拭うことに気をとられてて、後ろから近づいてきた人影に気づかなかった。
「あ〜あ、ふられちゃったね。天野さん」
「まっ、町田さん!」
 脂の浮いた顔で、笑いかけてきたのは、バイトの先輩だった。
「彼目当ての子は多いから、まさかとは思ってたけどさ、やっぱり君もそうだったんだ」
 そのにやにやした顔が苦手で、あまり近づきたくないと思ってた町田さんは、なぜか嬉しそうに私の隣に並んだ。
「ああいう奴って困るよなぁ、顔だけはよくてもさ、性格なんか最悪なんだって。ただの見た目で騙されちゃだめだよ」
 そう言うと、町田さんはゴミ箱に捨てられたケーキの箱をこれ見よがしに眺める。
「あ〜あ、もったいない……僕だったらこんなひどいことしないのになぁ。大体、君みたいな可愛い子に好きになってもらうような資格、あいつにはないんだよ。
 戻ってきもしないじゃないか。あいつが君に何してくれたわけ? そんなに想う価値、あいつにあるって言うの?」
 バイト中の静かな態度が嘘だったかのような、得意げな言い方をする町田さんを、私は思わず睨みつけた。
「やめてください! 月也くんは悪くない……勝手に好きになったのは、私なんだから!」
 言い返しても、まだ町田さんはにやにやしたまま私を見てきた。その目が、何か気の毒なものを見てるような、嫌な色に変わっていく。
「健気だね〜天野さんは……悪いこと言わないからさ、僕にしときなよ。僕だったら、君を悲しませたりしないから……ね?」
 最後は、囁くようにそう言って、私の肩を抱いてくる。その脂ぎった顔に嫌悪感がおさえられなくて、私は彼の手を振り払った。
「やめて! あなたなんか……あなたなんか、絶対に好きにはならない!」
 今度こそ強く叫んだ私の言葉で、町田さんの顔色が変わった。
「何だと……? 下手に出てりゃ、つけあがりやがって――」
 大きく振り上げられた手に、私は思わず身を縮ませて、目を閉じた。でも予想した痛みは、訪れなかったのだ。


「いいかげんにしたら、どうですか」
 低い声が聞こえて、目を開けた私の前で、町田さんが手首を捕まえられていた。
 振り向いた私が見つけたのは――眉を寄せた、月也くんの顔。
「月也くん――!」
 戻ってきてくれたんだ。瞳を輝かせた私をちらりと見て、月也くんはそのまま町田さんを睨んだ。
「すっ、杉里……なっ、何だよ! お前にそんなこと言う資格、あるのかよ!」
 町田さんの悔しそうな言葉に、月也くんは冷たく笑った。
「ありませんよ。だけど、あんたに言われる筋合いもないな。自分の嫌らしい顔、一度鏡で見てみたらどうですか?」
 口元に笑みをたたえて、それでも睨みつける瞳は真剣そのもので――月也くんに迫力負けした悔しさからか、町田さんは赤くなる。
「なっ、何だと――お前、バイトの先輩にそんなこと言っていいと思って……」
 負け惜しみのように言いかける町田さんの手首を、振り払うように離して、月也くんは彼の前に立ちはだかる。
「じゃあ言わせてもらいますけど、先輩の評判、結構悪いの知ってます? バイトの女の子にセクハラまがいのことしてるって噂、皆知ってますよ。
 これで、嫌がる彼女に言い寄ってたことまで知られたら――どうなるか、わかりますよね?」
 月也くんがそう言い切るのを、彼の背中越しに聞きながら、私は気づいたんだ。こうやって、町田さんから私を遠ざけて、守ってくれてることを。
 やっぱり、月也くんは優しいんだ――!
 私が嬉しさに胸を熱くしている間に、今度こそ返す言葉もなくなったのか、町田さんはあわてて逃げていった。
 


 そして二人残されて、私たちの前にはさっきまでと同じ光景。
 ごちゃごちゃした裏通りの、人の行きかう普通の道。
 でも、さっきまでとは何かが違う。そう、二人の間を流れる空気が――。
「あ、あの……ありがとう、月也くん」
 背中にかけた私の言葉に、月也くんはゆっくりと振り向いた。さっきまでの冷たい顔は、なんだか微妙にその色を変えたように見える。
「別に――」
「あんたのために、やったんじゃないから。でしょ?」
 ふざけたように後を取った私に、月也くんは一瞬見開いた目を、すぐにそらした。
「でも、やっぱり嬉しかった……月也くんは、私の思ったとおりの人だった!」
 嬉しくて、満面の笑みになった私に、月也くんは無言のまま、停めていた自転車を取り出す。
「――乗れよ」
 自転車の後ろを指して、無表情に言われて、私はすぐには動けなかった。
「早く乗れって! 家、隣の駅なんだろ? 送ってやるから」
「えっ、本当? で、でも、どうして知って――」
 言いかけた私は、頭に浮かんだ救世主の面影で、口をつぐんだ。そうか、もしかして、月也くんにも私の情報が伝わってた――?
「あ、ありがとう――!」
 急いで乗った私に、月也くんはゆっくりと自転車を走らせる。
「またあんな奴に捕まったら困るから……それだけだからな」
 ぶっきらぼうに呟いた、彼の耳が気のせいか少し赤く見えて――私は微笑んだ。
「月也くん――私、やっぱりあなたが大好き!」
 私の感極まった叫びに、月也くんは思わず自転車をよろけさせて、あわてたように立て直した。
「よ、よく、そんなこと飽きもせずに何度も言えるな……」
 今度こそ、完全に照れ隠しのようにぼやく月也くんの背中に、私はしっかり抱きついた。
「だって、本当だもん――!」
「……勝手にすれば」
 負けずに言った私の耳には、そう呟いた、月也くんの小さな声が、確かに届いたんだ――。
 始まったばかりの私の恋に、やっと訪れた奇跡。
 小さな、小さな芽吹きを逃さないように、私は広い背中を、しっかり捕まえた。
 


 
 
 
 
 END
 

  


 


 

 

  

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