この作品は、「小説家になろう」内企画「べた恋2010春」参加作品です。
開催期間は4/1~4/7 ご興味を持たれた方は、ぜひ上記リンクより企画詳細をご覧ください^^
新学期が始まってまだ間もない四月のある日。
午後の暖かな窓際、手鏡で赤くなった頬を見ていたあたしの肩を誰かが叩いた。
「おっす。まーたやったんだってえ?
青みがかった黒のショートボブをかきあげた奴を見て、あたしはため息。
「ただ彼氏を寝取っただの何だの、騒がれただけだよ。別にとったんじゃなくて、ただその場限り楽しんだだけだってちゃんと言ってやったのにこのザマ。ついてないよねー」
「そりゃあ怒るに決まってんでしょ、相手の彼女からすれば。いくら誘ったのが自分の彼氏でも、悪者は相手ってのが女の心理ってやつなのよ」
あたしの手鏡でグロスを塗りなおしながら笑われて、ぶうとふくれる。
「うるさいなあ、
唯一の親友と言える木下椎奈は、ストレートな皮肉なんて全く気にせずにウインクまでしてみせた。
「ほほほ。お褒め頂きどうも。沙良もあたしみたいにうまくやらなきゃ。あんたの場合、後処理が適当すぎんのよ」
子供みたいに頭を撫でられて、あたしはぷいと横を向いた。そのまま長い茶髪の枝毛カットを再開する。
さらさらな手触りは男受けがいいから、欠かすわけにはいかない作業なんだ。
「いいもん、別にそんなの適当で。誰がどうなろうとあたしの知ったこっちゃないし」
「あのねえ、そんなやり方してたら、いつか刺されちゃうかもよ?」
ふざけた口調で注意する椎奈を無視して、昼休みの教室を出る。
通り過ぎざまにこそこそと何事か話し合うクラスメイトの女子たちも、ついでに無視して。
「――あんたたちねえ、言いたいことがあんなら直接言えば?」
ばん、と扉に手をついて威嚇する椎奈の声に、あたしは笑った。
あの子たちに何て噂されてるかなんて知ってる。
二股なんて序の口で、三股、四股もへっちゃら。優しくしてくれる男なら誰にでも尻尾を振ってついていく。
一度寝たらあとはどうでもいい。あっさり捨てて、また次の男――だったかな。
言ってること全部本当で、自分でもわかってるから平気だ。
さっき椎奈に言ったこと、それが真実。あたしのポリシー。
人生なんて楽しければそれでいい。あとに何も残らなくてもかまわない。
何もいらない。何も必要ない。あたし自身でさえも――。
そんな自分を覆すことになる人物とあと数時間後に出会うなんて、この時のあたしは全く予想してなかった。
放課後、靴箱を開けたら足もとに落ちた白い紙。
拾うとそれは今時珍しい白い封筒のラブレターだった。
「一年五組、米倉……なんじゃこりゃ。フリガナふっとけっつうの」
米倉なんとか君に会うべく、何の気なしに指定された裏庭へ向かう。
クラブ活動もバイトもしてないあたしは、忙しくもなんともないから。
いや、それが理由じゃないな。ただ、面白そうだったから。
「さっ、沙良さん! 来てくれたんですかっ!」
感極まった瞳は冗談じゃなく潤んでいて、あたしとそう変わらない背格好はどことなく頼りなさげ。
それが彼の第一印象だった。
「あ、あ、あのう――僕、中学の頃から沙良さんのことがすっ、好きで……追いかけてこの高校に入りました! 僕とお付き合いしてください! お願いします!」
ふわふわした天パの頭をしきりと掻きながら、彼が最後まで言い終えるのを待っていたあたしは、ただ一つだけ気になっていたことを訊ねるべく口を開く。
「ふうん。でさ、下の名前何て読むの?」
はい? と首を傾げた間抜け面に、あたしは「いいよ」と笑ってやったのだった。
といってもあたしにとってはたくさんいるうちの一人でしかなかったし、どうせ飽きたら忘れる予定の存在でしかなかったんだけど。
ただ、入学したての雄飛はあたしの噂なんて知らないわけで、見るからに純粋真面目そうな少年だったから、真実に気づくまで放っておくことにした。
本音を言えばあとくされもない楽な男たちが一番なんだけど、たまにはこういうのもいいかな、と思ったから。
ひどい女だと思うなら、わかった時に離れていけばいい――そう結論付ける間に、告白から一週間が過ぎていた。
「沙良さんっ! お昼一緒に食べましょう!」
昼休みのチャイムが鳴るやいなや現れた雄飛に、さすがに辟易としながら目線をやる。
「べ、別にいいけどさあ。またお弁当作ってきたの?」
「はい! 今日も沙良さんが好きな甘い玉子焼きです。あと、おかかと梅のお握りにかぼちゃの煮物。タコさんウインナーもありますよ」
えへへ、と嬉しそうに笑う雄飛は料理が趣味らしい。自炊しないあたしからすればその神経を疑うけど――まあ、おいしい弁当が食べられて悪い気はしないわけで。
「おっ、うまそーじゃん。あたしもひと口」
「あ、椎奈さん。だめですよお〜玉子焼きは沙良さんのです!」なんて、近寄ってきた椎名の手をぺしっと叩く雄飛。
ケチ、とぼやく椎奈と雄飛の攻防の合間に、玉子焼きをしっかり頂く。
うーん、ふんわり甘い完璧な美味具合。
やっぱ雄飛と付き合うことにしてよかったかな、とか考えていたあたしの向かいで椎奈が言った。
「それにしても雄飛、あんた結構やるねーもう三年まで噂だってよ」
「えっ、そうですか? 僕はただ皆さんからの質問に答えただけなんですけど……」
頭を掻く雄飛と、その背中をばしっと叩く椎奈。
ん? 何このやり取りは。もごもごと玉子焼きを頬張ってたら、椎奈がふふんと笑ってあたしを見た。
「沙良さあ、全然知らないの?」
「何をよ」
「あんたがついに年貢を納めたってウ・ワ・サ。マトモな奴と付き合うことにして、他清算するらしいって皆言ってるよ?」
こっそり耳打ちされた内容に喉をつまらせそうになったあたしの背中を、雄飛があわててさする。
「大丈夫ですか? そんなに驚かなくても――僕がちゃーんと言っておきましたからね! 沙良さんと僕は真面目に交際してますって!」
何をどう誤解してるんだかわからないけれど、なぜかにっこり笑顔で宣言して、雄飛は一年の教室に戻っていった。
「もう今じゃ学校中が知ってるみたいなもんよ。いいのお? 男遊び終了しちゃう気? あれっ、もしかしてそれが雄飛の思惑だったりしてねーはは、やっぱ意外とやるよあいつ」
椎奈に笑い飛ばされて、変な汗をかいた時にはもう遅かったのだ。
告白から二週間、四月も末に入る頃にはすっかり暇をもてあましていた。
毎晩、いや一晩に複数なんてことも珍しくなかった男との約束が少しずつなくなって、気づけばいつも雄飛と一緒。あとくされなさそうな相手を選んでたからってのもあったかもしれないけど、だからってちょっと薄情じゃない?
勝手な文句を心の中で呟いて、携帯を広げてはみたものの、さすがに目の前で他の男に電話するわけにもいかず――結局こうしてソファに寝転びながら、雄飛が作る夕食を待つあたし。
「沙良さーん。もうすぐカレーできますよお。お皿、お皿取ってくださいってば」
「めんどくさい。戸棚のやつ勝手に出してよ」
リモコンをいじりながら振り向きもせずに答えても、雄飛は全く気にする様子もなく「だめですよー! 働かざる者食うべからずって言うでしょ?」とオタマ片手にお説教と来た。
「……ったく、うるさいなあ」
ぼやきながらもいつのまにか雄飛のペースに巻き込まれて、あたしも皿出しちゃってるし。
だってこの台所で誰かが料理を作るなんて、小さなピンクのテーブルに二人分のご飯が並ぶなんて。
いつも一人でコンビ二弁当か、連れ込んだ男とだらだらするだけだった部屋が、雄飛といるとちゃんとした『家』みたいで落ち着かない。
くすぐったい気持ちは嫌なものじゃなかったから、ちょっとほだされてるだけなんだ。おいしいご飯が食べられるから、ただそれだけだって。
「――おいしい」
つい言ってしまったら、雄飛は天にも昇りそうなくらい嬉しそうな顔をする。
「よかったあ。カレーは僕の得意料理なんですよ。実はスパイスに凝ってまして……」
なんだかよくわからない粉の類を見せながら話す雄飛の言葉は半分以上右から左に流れていたけど、最後の言葉に耳が反応した。
「僕も家に帰っても誰もいないから、沙良さんと一緒に食べられて嬉しいんですよね」
尻尾ふりふりな子犬イメージだっただけの雄飛が浮かべた、少し寂しげな表情に胸がちくんと痛む。
そっか、離婚して母一人子一人だとかちらっと言ってたっけ。
母親だけでもいるんだからいいじゃん、とかいつもなら言いたくなるところだけど、その寂しさはよーくわかるから、あたしは持っていたスプーンを置いた。
「さ、沙良さん……? な、何やってるんですか?」
「え? 何って脱いでんだけど。ほら、あんたも早く脱ぎなよ」
突然したくなっちゃったからってだけで大して理由なんてないのに、「なっ、なんで!? っていうか何のために?」なんて口から泡でも出しそうな勢いで雄飛が飛びのく。
「だって――寂しいんでしょ? あっためてあげるからさ」
肌と肌でよしよししてやろうと思ったのに、ブラウスのボタンを開けるあたしの手をがっちり掴んだ雄飛が、目をそらしたままぶんぶん頭を振る。
「だめです! そういうことはもっと、そ、その……お互いのことを知ってからじゃなきゃ!」
「何を知るのよ。もう名前も家も知ってるんだからいいでしょ? 趣味とか? んーとネイルいじりとショッピング? それとも家族構成? 両親は昔事故で死んで、姉が一人。これでいい?」
首にしがみつこうとした両手は、必死な顔で押し戻された。
「そっ、そういうことじゃなくって――とっ、とにかくだめです! 僕は沙良さんを大事にしたいんですっ!」
精一杯叫ばれて、あたしは口をあんぐり開くことしかできなかった。
結局手を出されることもないまま、なんだかんだで時は過ぎ、一、二年合同ハイキングの日がやってきた。
新しいクラスの親交を深める、とかいうご大層な目的はもちろんあたしにはどうでもよくて、さっきから何度目かの休憩中。
「いい子じゃん、雄飛。本気で考えてやればー? あんたにはああいう子が合うかもよ」
隣でペットボトルのお茶を飲む椎奈に言われ、ふるふるとあたしは首を振る。
「やだよー。そろそろウザイんだって。だってまだ手すら握らないんだよ? それもキモくない?」
「そんなこと言って、あんたもわかってんでしょー? 本当はそういう奴がちゃんと自分のこと好きだと思ってくれてるって」
あたしの内心なんてお見通しだって顔で、椎奈が答える。
でもでも、やっぱああいう奴とあたしは住む世界が違うんだよ。
これ以上一緒にいたって、どんどんその差が開いていくだけだって。
心の中でぼやいてたあたしの前に現れたのは、見慣れた笑顔。
「ちょっと沙良、あたし知らないよ?」
珍しく警告してきた椎奈の言葉にちょっとだけ後ろ髪を引かれる。そんな自分にむしゃくしゃして、わざと嬉しそうな笑顔を作った。
「
適当に会っては遊ぶだけだった男だけど、甘えたふりして言ってやる。
もちろんこれが単なるお愛想だってわかってる久は、あたしにとっても楽な相手だ。
皆がいる広場から少しそれた木陰に連れ込まれて、肩を抱かれる。
「お前が更正したって聞いたからさ。でもガセだったんだ」
嬉しいよ、またこんなことできてさ――囁きかける久の唇がおりてくる。
雄飛とは違う長身の、広い胸に包まれて目を閉じた。
久しぶりに誰かの体温を感じた一瞬、ガサガサと草を分ける足音が聞こえた。
「なっ……何やってるんだ! 沙良さんから離れろ!」
瞼を開いたあたしの瞳に飛び込んできたのは、息を切らした雄飛の姿。
なんで? どうしてここに――? ってそんなこと考えてる場合じゃなかった。
「離れろって言ってるだろ――!」
飛び掛ってきた雄飛を簡単にはらいのけて、久が口元をゆがめる。
「バーカ。何が離れろ、だよ。お互い同意の上だっつーの。こいつはそういう女なんだよ。そんなことも知らずに舞い上がってんじゃねえよ!」
けんかなんて慣れてる久からしたら、雄飛なんて簡単にぶちのめせる。
さっさと逃げればいいのに――このバカ、なんでまた向かっていくのよ!
「沙良さんを侮辱するな! 沙良さんはそんな……そんな人じゃないっ!」
真っ赤な顔で久に飛び掛っていく雄飛。その必死さにいい加減耐え切れなくなったあたしは、思わず口を開いていた。
「そんな女なのよ、あたしは!」
「沙良さ――」
雄飛の瞳が見開かれる。なぜか直視できなくて、二人から一歩離れた。
「あんたが望んでる純粋な『彼女』なんかじゃない。そんな風にはなれない。本気の関係なんてうざいだけ――それが嫌なら、さっさと別れれば?」
ぶつけた言葉への反応は見ないまま、あたしはその場から逃げることを選んだ。
本当はどっかでこうなってほしいと思ってた。
そうだよ、ほっとしてるくらい――なのになんであたしは逃げてんの?
ゆるやかな傾斜の下山ルートをおりながら、ぐるぐる回る問い。
そんなのわかんないよ。だけど見たくなかったんだ、雄飛の顔を。
怒った? それとも傷ついた――?
でもそれでいい。だって雄飛にはあたしみたいな女じゃないほうがいい。
もっと真面目で、純粋な普通の子がいいんだ。
ずきん、と痛む胸に足が止まる。一瞬の動揺に驚いていたあたしは、背後で聞こえた声に気づくのが遅れた。
「やっぱり、あんたって最低ね」
振り返ったあたしを、仁王立ちして睨みつけていたのは見知らぬ女。
雄飛と同じ色のジャージを着ていることからして、一年らしいけど――どうして睨まれているのかわからない。
きょとんとしていたあたしに苛立ったのか、すぐ近くまで歩み寄ってきた。
「淫乱尻軽、そんな女が雄飛くんの彼女だなんて――そんなの絶対許さない。だからわざわざあの人たきつけて、あんたを誘ってもらったのに……どうして逆に雄飛くんを傷つけたりするの!」
そういうことか、とやっと事態を飲み込んだ。
なんだ、雄飛だって結構モテるんじゃん。はめられたとかそういう事実より、なぜか考えたのはそんなこと。
「中学の頃から、ずっとそばで見てきたんだから……それなのに、どうして選ばれたのはあんたなのよ!」
潤んだ瞳で見上げてくる彼女はあたしよりも背も低くて華奢で、いかにも女の子らしいふわふわロングの可愛い系。
責められてるはずなのに、どこかで納得してるあたし。
そうだよね、あいつにはこういう子のほうがよっぽどお似合いだよ。
だから――あたしは笑った。
「そうだよね。でも心配しないで。もう向こうが愛想つかしただろうし――だからさっさと告白しなよ」
親切心のつもりだったのに。
百パーセント、とは言い切れなかったのが裏目に出たのだろうか。
「……っ、ふざけないでよっ! この、最低女――!!」
ドン、と肩を思いっきり押された。
まったく予想外の行動だったから、足を踏ん張ることもできなくて。
そのままあたしは斜面を転がり落ちていった。
目を開けたら、最初に見えたのは白い天井。
そして、雄飛の心配そうな瞳。
「あ、れ……夢?」
呟いた途端襲ってきた全身の鈍痛で、フラッシュバックされるさっきの光景。
あ、そっか――あたし、突き落とされたんだっけ。
他人事のように思えたシーンは、目線を巡らした先に見えた白い包帯の数々で急に現実味を帯びてくる。
「あちこち打撲と擦り傷だそうです。それから軽い脳震盪――落ちた先が茂みだったからよかったってお医者さんが言ってました」
淡々と説明されて、ああ、と二度納得。
きっと責任感から付き添ってただけで、久とのことをまだ怒ってるんだろう。
こんなあたしだから、自業自得とか、ざまあ見ろとか思ってるのかも。
とりあえず迷惑かけたことでも謝っとかなきゃ。
寝たままだと俯いた雄飛の顔がよく見えなくて、あてて、と呻きながら体を起こす。
ごめんね、と言おうとしたあたしの口は、窓から差し込む夕焼けの光に照らされた顔を見たことで固まった。
「ごめんなさい――沙良さん!」
あたしが言おうとした言葉を先に口にした雄飛は、ぽろぽろ涙を流して泣いていたのだ。
男の子の泣き顔なんて初めてで、しかもこの状況でどうして雄飛が泣くのかわからなくて、すっかりパニックに陥ったあたしの前で、雄飛が続ける。
「僕のせいでこんなこと……守ってあげられなくて、ごめんなさい!」
驚きすぎて言葉さえ出てこない。固まったままのあたしを見て、雄飛が心からほっとしたように呟いた。
「よかった、沙良さんが無事で――本当に」
さすがに恥ずかしくなったのか涙を手の甲で拭いて、照れ笑いを浮かべている。
「ば……ばかじゃないの。あ、あたしのことなんかそんなに心配してさ。大体あたしは――」
言いかけたあたしに人差し指で静かに、と示してみせて、雄飛は笑った。
「知ってました、本当はずっと前から。沙良さんの噂は全部チェックしてましたから」
「じゃあ何で……」
てっきり何も気づきもしないお子様だと思ってたのに。
笑顔を収めた雄飛の瞳は、急に大人びて見えてドキリとする。
「沙良さんは僕の初恋だから」
大事な人なんです、と笑った顔がまぶしく思えたのは、きっと夕焼けのせい――。
ずっと見つめていたのだと、雄飛は言った。
あたしのマンションと通学路が近いから、初めはよく目にする派手な女子高生だと思ったって。
「それがね、たまたま見ちゃったんです。このベランダから、一人で夜空を見上げてるところ」
また凝りもせずマンションに出入りするようになった雄飛が笑う。
「その瞳がすっごく寂しそうで――それでなんか気になっちゃって。会うのを楽しみにして、会えない日は悲しくて。それで気づいたんです、これが恋ってもんなんだって。そしたらよく男の人と一緒にいるし、しかもいつも違う人だし、そりゃあ気づかないわけにいかないですよ」
寂しげにもらす雄飛の隣が少し居心地悪くって、あたしも笑った。
「じゃあどうしてよ? こんな尻軽女、近づかなきゃよかったのに」
「そんな言い方しないでください! 沙良さんはそんな人じゃない。それに――辛いってわかってたって、好きな気持ちは抑えられない。違いますか?」
まっすぐ見つめられて、目をそらさずにいられなかった。
考えちゃいけないのに、雄飛の言葉が鍵になる。
胸の奥に押し込めていた想いが急に蘇ってきて、目を固く閉じた。
どうして思い出させるのよ――苦しくてたまらなかった、あの辛い想いなんて。
雄飛が何か言いかけた、その瞬間だった。
玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けたあたしの目の前に現れたのだ。
決して手の届かない相手だった、苦いあたしの『初恋』
無理やり過去形にしたはずの想いは、やわらかい微笑を見たことで色鮮やかな現在進行形に変わる。
「久しぶり、沙良ちゃん」
低く滑らかな声が直接あたしを呼ぶのは、何年ぶりだろう。
中学に入ってからは既に彼を避けていたから――もう思い出せない。
「……お義兄さん。どうしたの突然、びっくりするじゃない」
やっと出した自分の声はまるでロボットが喋ってるみたいだったけど、幸い彼は気づかなかったらしい。
「こっちに置いたままにしてた由梨江の荷物、ちょっと取りに来たんだ。それにしてもなんか他人行儀だなあ、お義兄さんだなんて。昔はいつも
近づいた時に香るタバコとコロン。昔と変わらない匂いに胸がきゅうんと締め付けられた。
「だって、お義兄さんはお義兄さんでしょ」なんて笑い返す自分に驚く。こんなにドキドキしてるのに、普通に話せるなんて。
「あれ――お客さん?」
傘立ての横にあった雄飛のスニーカーを見た彼の言葉で、急激に現実へ引き戻される。
「ちょっ、ちょっと待って……!」
あわてて止めるあたしを放っておいて、どこか楽しげな顔で彼はリビングへ歩いていく。
ソファにちょこんと座っていた雄飛が、かしこまって立ち上がった。
「君、沙良ちゃんの彼氏?」
穏やかに訊ねられて、雄飛が緊張した顔になる。
「ちっ、違うよ、優兄ちゃん。彼はただの――」
思わず昔の呼び名が口をついて出て、自分の顔が赤くなっているのがわかった。
「彼氏です」
ふいにあたしの腕を引いた雄飛が答える。
「何言ってんのよ、ちょっと……」
否定しかけた声は、強い腕の力で止まる。
「――そう。大事な
ふっと笑って言った彼に、雄飛も張り切って返事している。
目の前で繰り広げられている光景なのに、どこか遠く見えた。
彼が帰った途端、あたしは叫んでいた。
「どうして余計なこと言うのよ! よりにもよって……彼の前で!」
なんで自分が怒っているのかもわからない。でも腹が立つんだから仕方ない。
あたしの滅茶苦茶な叫びをただ黙って受け止めていた雄飛は、少し俯いて呟いたのだ。
「そっか。あの人だったんだね――沙良さんの忘れられない人」
なんとなくそんな気がしたんだ、と笑った顔はちょっと切なげで――。
あたしの神経を逆なでした。
「何よそれ……勝手に何でもわかったようなこと言わないで!」
「沙良さ――」
「初めて好きになった人は姉の恋人で、二人が目の前で結婚するのを見てたあたしの気持ちが……あんたにわかるの!?」
ついに叫んでしまったら、流れ出した涙と胸の痛みは止まらなくて、あたしは部屋を飛び出していた。
外はいつの間にか雨が降ってたけど、濡れることなんてどうでもよかった。
そうだ。あたしはずっと苦しくて、苦しくてたまらなかった。
どれだけあきらめようとしても彼ほど素敵な人なんかいなくて、だからあたしはやめたんだ――恋することを。
本気にならなければ、傷つくことなんてない。その場限りの温もりだけが、あたしを癒してくれる。そう思ってた。でも、本当は違ったなんて――。
「沙良さん、待って!」
追いついてきた雄飛に腕を引かれたけど、思い切り振り払う。
なのに雄飛は強い手であたしを引き寄せて、抱きしめたのだ。
「離してっ!」
腕の中から抜け出そうと両手をつっぱる。だけど雄飛は絶対に離そうとしなかった。
「だめです! 聞いてくれるまで離しません!」
打ち付ける大粒の雨に負けないくらいの声で言われて、ようやく気づく。
あたしを抱きしめる雄飛の腕は震えていたんだ。
「僕だって……本当はずっと辛かった。好きな人が、他の男の腕に――なんて。でも沙良さんは……沙良さんの心は純粋なんだって僕は知ってたから、だからあきらめたくなかった。ガキだからとか、初めてだからとか――そんなこと関係ない! 本気で沙良さんのこと好きなんです!」
だから、そばにいてください。
雄飛は囁くような声で言った。
まだ肩のあたりに余裕がある学ランが、雨でずぶぬれになっている。震える腕が、あたしをぎゅっと包んでいる。首元から少しだけ汗の匂いがして――あたしは思っていた。
ああ、これが『男の子』の匂いなんだって。
いろんな男と肌を重ねてきたのに、それは初めて感じる、優しい匂いだった。
後日、優兄ちゃんは再びマンションにやってきた。お腹の大きくなったお姉ちゃんと一緒に――。
本心はショックではあったけど、素直におめでとうと言える自分がいた。
「ありがとう。ほら、沙良にも祝福してもらったんだから、ちゃんとタバコやめるのよ?」
穏やかながらも、しっかりと念を押すお姉ちゃんが席を外した時、優兄ちゃんがこっそりあたしに向かって舌を出した。「うちの奥さん、ああ見えて結構強いんだよ」だって。
幸せそうにお腹を撫でるお姉ちゃんと、優しく見守る彼を見ながらあたしは思ったんだ。
ずっと引きずってきた想いを、これで過去にすることができる――ってね。
「えー? マジで全部清算したの!?」
いつもの余裕はどこへやら、目をまん丸にした椎奈にあたしは頷く。
「清算っていうか、もう連絡のとりようもないし。ほら、データ全部消えちゃったもん」
携帯を見せて笑うと、しばらくまじまじとあたしを見ていた椎奈が、何かに気づいたように隣の雄飛を見た。
「やーっぱねえ! こいつ、意外とやると思ってたんだ。あたし!」
わしわしと頭を撫でられても、雄飛はとぼけたふりして「やめてくださいよー」なんて言ってる。
あの雨の夜、『本気』の彼に怒られて、携帯の男データを削除させられた。
『僕との恋を、本当の初恋にしてみせます!』なんて悔しそうに叫んだ雄飛の顔が浮かんで、思わず笑ってしまう。
可愛い奴――いつしか、そんな風に思ってる自分がいた。
覚悟しときなよ? あたしの『本気』は結構熱いんだから。
心の中で忠告したら、目が合った雄飛が笑う。
肩までの長さになったあたしの髪を、初夏の風が静かに撫でていった。
←読んだよ、と気軽に押してやってくださいませ^^一言感想も大歓迎!
Copyright (c) 2010 Munjuhee All rights reserved.