クリスマス限定彼氏。

  


 
 
 付き合って初めてのクリスマスは、誰よりもロマンチックに過ごすんだ。
 大好きなバンドのライブ、夜景が綺麗なレストランのおいしいディナー、そして――どこよりも綺麗で、いっちばん大きくて、きらきらのクリスマスツリーの前でのキス。
 目を閉じれば鮮やかに想像できる。
 誰よりも幸せな二人の姿が――。
 そう思っていたはずのあたしに訪れたのは、クリスマス直前の悲劇だった。


「別れようって……急にどういうことなの?」
 短い携帯のメールだけで告げられた言葉に納得できずに、あたしは彼の携帯を鳴らしていた。
 バイトの休憩中だとか、そんなこともかまってられない勢いで、何度も何度も。
 でも彼は出てくれなくて、メールも返してくれなくて、留守電に吹き込むしかなくて。
 ついには電源まで切れてる始末。
 あたしはパニック状態で冷たい廊下に座り込んでいた。
 立ちっぱなしでずきずきしていたブーツの足も、かじかんでいた指先も、今は何も感じない。
「なんで、なんで、なんでえ……?」
 ただぐるぐる回る言葉を、いつしか声に出していたことも気づいてなかった。
「ちょっと田丸さん! 休憩もう終わってるよ! さっさと出てよ、忙しいんだから!」
 パートのおばちゃんに急かされて、あわてて握り締めていた携帯をポケットに入れる。
「まったく……今の子は携帯がなきゃあ生きてけないのかねっ、ほんとにもう! ちょっと時間があればいじってばっかりいるんだから」
 ぶつぶつと聞こえよがしに言われて、従業員用出入り口のドアを強く締められた。
 こんな嫌なおばちゃんにも耐えて、この大型スーパーでの初バイトに挑戦したのも、何もかも夢のクリスマスデートのため。
 そう思えば今まで頑張れた。
 それなのに――。
『ごめん、もう別れよう』
 たったそれだけのメールが届いたのはつい先ほどのこと。
 高校に入って、人生で初めてできた彼氏との、初めての恋人同士のクリスマスを過ごす、という夢を突然壊されるなんて……。
 そんなの納得できるはずなんてない。
 とにかくバイトが終わったら、その足で彼のもとへ向かおう。
 直接会って、確かめて、それで――。
 そう思っていたあたしの目の前を横切った人影。
 まさに問いただそうとしていた人物がすぐに現れるなんて、と動けなかったあたしには気づかず、彼は楽しそうに話しながら歩いていた。
 ――隣の女の子と仲良く腕を組んで。
 まさか、と大きく口を開けたまま固まってしまったのは、嬉しそうに彼を見上げるその子の顔が、あたしのよく知ってる人物だったから――。
「ま、舞……!?」
 小さく呟いてしまってから、あわてて口を押さえ、陳列棚の脇に隠れる。
「どうかした? 舞」
「なんか今誰かに呼ばれた気がしたんだけど――ちょっと唯花の声に似てたような……やだあ、気のせいだよね、きっと」
「何怖えこと言ってんだよ。こんなスーパーに唯花がいるわけねえだろ? それに今頃どっかでバイトって言ってたぜ」
「そうだよねえ。悦史のこと紹介したのあたしだし、やっぱちょっとは罪悪感とかあるのかも。空耳ってやつ?」
 言ってアハハと笑う舞。平気でその肩を抱く悦史。
 ちょっと前まではあたしの大事な親友で、その大事な親友の中学時代の同級生だった、あたしの彼氏――だったはずの二人が、『裏切り者』に変わった瞬間だった。
 無意識にエプロンを握り締めていたあたしは、それでも出て行くタイミングをなくして、乾物コーナーの角に座りこんだまま。
「可愛いからって思って付き合ってたけどさあ、なんか話題があわねえっつーか……一緒にいて疲れるんだよな。何言っても俺に合わせてばっかだし。そのくせ記念日とかにはすっげーこだわるし。悪いけど、俺にはお前くらい楽な奴のほうがいいわ」
「ひっどい奴〜! まあ、こんなんとヨリ戻しちゃうあたしもあたしだけどさ」
「こんなんって何だよ。おっ、これ期間限定。やっぱこういう外が混雑する時期は家で菓子食いながらDVD三昧に限るよなー」
 すぐそばにあたしがいるなんて夢にも思っていないだろう二人は、そう言って笑いあいながら仲良くカゴにお菓子やらジュースやらを入れてレジへと向かっていった。
「え、悦史の奴……舞も、信じらんない――!」
 やっと声が出たのはさっさと会計を済ませて二人が出て行った後だった。
 ふるふると震える拳。ひきつる顔。
 ――友達だと思ってたのに。平気な顔して、嘘ついてて、裏切って……!
 しかも悦史があんな男だったなんて――!
 ショックすぎて頭がぐらぐらする。
 あたしにはいっつも『可愛いね』って、『大好きだよ』って言ってたくせに。
 明日のクリスマスデートのプランだって、黙って賛成してくれてると思ってたのに、こんな直前にあっさりあたしを振って、よりによって親友の舞とヨリ戻すなんて。
 ほんとに、ほんとに……なんて奴なの!
 そう思った途端、ついに頭に血が上って二人を追おうと飛び出しかけたあたしは、すぐに混雑したレジの前で立ち往生してしまう。
「ちょっと! 田丸さんっ! 売り出しコーナーはこれからが勝負でしょっ! さっさと外行ってよっ!」
 夕方五時を過ぎ、そろそろ仕事帰りのお父さんたちや、買い物の主婦たち、そして行きかうカップルたちをターゲットに、あたしはまた売り込みを始めるはめになったのだ。
 信じていた彼氏と親友に裏切られ、惨めに振られたその夜に。
「クリスマスケーキ、クリスマスケーキはいかがですかあっ?」
 あたしはやけくそで叫んだのだった。





 女の子らしい、なんてそんなの嘘ばっかりだ。
 外見だけは可愛いとか、高嶺の花だとか言われるけど、本当は逆にそれがコンプレックスだった。
 ちょっとでもイメージと違うことを言ったら、あたしらしくないとか、似合わないとか驚かれるのが嫌だった。
 だからいつの間にかあたしは演じてたんだ――可愛くて、女の子らしい、『田丸唯花ちゃん』の役を。
 告白してくる子はたくさんいたけど、その中の誰も本当のあたしじゃなくてその仮面が気に入ってた。だからずっと断り続けた。
 本物のあたしを知ったら幻滅されるんじゃないか――いつもどこかにあった不安。
 だけど悦史は最初からフランクで、必要以上に気を遣ってこなくて、一緒にいてあたしはすごく楽だった。
 だからいつの間にか大好きになってて、告白された先月にも勇気を出してOKしたのに……。
 結局悦史はあたしのことなんて軽くしか見てくれていなかったんだ。
 嫌でも気づかされた事実に打ちのめされ、バイトを終えた頃には思い切り落ち込んでいた。
「お疲れ様。はい、三日間のバイト代。本当は明日、明後日も来てほしいんだけどねえ。やっぱり今日でやめちゃうの?」
 おじさん店長に残念そうに渡された封筒を手に、あたしは首を縦に振る。
 ――だって、もう必要ないんだもん。こんなお金。
「最初はちょっとどうかと思ってたけど……まあ、最後の頑張りはわりとよかったわよ。お疲れさん」
 思いがけず嫌味だと思ってたおばちゃんにまで労われて、あたしはお辞儀をして店の裏口から外へ出た。
 初めてのバイト。初めて自分で稼いだお金。
 これも夢見ていたクリスマスを悦史と過ごすために、お母さんのパート先に頼んでやらせてもらったもの。
「唯花、今日もお母さんラストまでいるから、夕食一人でお願いね。お父さんも残業だから……って、ああ、あなたデートよね。今日はイブイブですもんね。楽しんできてねーっ!」
 あいかわらず余計なテンションの高さで手を振ったお母さんの言葉を思い起こしながら、駅へ向かう。
 ――何がイブイブよ。変な若者言葉だけ使いたがるんだから。
 心の中で呟いて、駅近くのコンビニに夕食を買うために立ち寄る。
 本当はスーパーで店員割引で買えばよかったんだけど、とてもじゃないけどそんな場面誰にも見せたくなかった。
 さっきまではあれほどきらきらして見えた街のイルミネーションも、コンビニの入り口に貼られたクリスマスデコレーションも、何もかもが嫌味に映る。
 お弁当コーナーはがらっと寂しくなっていて、あたしは仕方なくカップラーメンをカゴに入れた。
 それからお菓子とジュースを選びかけて、手を止める。
 悦史と舞が仲良く買い物していた光景が目に浮かんだのだ。
「やっぱ、やめとこ」
 店員の目までどことなく『クリスマス前なのに、一人でカップラーメン?』と蔑まれているようにさえ見えてきて、あたしは頭を振り、何も買わずにコンビニを出た。
 そして駅の改札で目にしたのは明日行くはずのライブのポスター。
 ――そうだった……。明日のライブ、どうしよう。
 お母さんにバイト代前借りしてまで張り切って買った二人分のチケット。
 予約もしてあるレストラン。
 あれほどきらめいていたクリスマスデートのプランが、今度はずっしりあたしにのしかかってきたような気がした。
 今更他の誰かと行くなんて無理だし、第一友達は皆彼氏や友達と予定を入れてる。
 舞だって、彼氏いない組でカラオケ行くって言ってたのに。
 一番仲良しの舞とこんなことになって、今更他のクラスメイトを誘ったりしたら、惨めに振られたことがばれちゃう。
 こんな最悪な状況で、もっと恥をかくなんて絶対嫌だ。
「バカみたい……変なプライド」
 思わず独り言を言って、吹いてきた寒風に身を縮める。
 ――でも、プライドぐらいは大事にしなきゃ、やりきれないよ。
 明日のためにと、この前気合を入れてかけたふわゆるパーマも、買っておいた可愛いコーディネートも、全部無意味になってしまったことも悔しくて、ひたすら悶々としながら電車に乗って――最寄り駅で降りた、その時のことだった。
 マフラーで口元まで隠しながら駅の階段を下りていたあたしのブーツに、ばさっと飛んできた紙切れ。
 赤と緑の色が見えて、どうせクリスマス関係のチラシだろうと足を振り、吹きすさぶ風で飛ばしてやろうとしたのに――なぜかしつこくぴったりくっついて、そのチラシは離れなかったのだ。
「んもう! 何よ、チラシまであたしをバカにして――!」
 ムカついて手袋をした手でぐしゃっとチラシを掴む。
 何が書いてあるのかと睨み付けたはずが、咄嗟にその文字を読んでしまった。
「何、これ……」
 そこに書かれてあったのは、『クリスマス限定彼氏、やります』の謳い文句。
 クリスマスツリーやケーキの写真と共に、携帯電話の番号が書かれていたのだ。
「うわ、あやしい――」
 呟き、顔をしかめて、当然捨てるべくチラシをぐしゃぐしゃにしかけたあたしは、ふと説明文に目を止めてしまう。
「あなたの描く、夢のデートにお付き合い。秘密厳守。ご希望最優先。クリスマスにドタキャンされた、またはクリスマス前に振られてしまった、そんな悔しい思いを『限定彼氏』と共に晴らしてみませんか……?」
 ――見るからにあやしい。あやしすぎる。こんなの絶対、何かやばい匂いがする。
 そう思うのに、なぜか目は続きを読み進め、手はチラシを握ったまま。
「あとくされなし、安全保障の『限定彼氏』――ご希望とあらば、振った相手の前でイチャついて、悔しがらせることもできます……」
 その文面につい、かっこいい『限定彼氏』を連れて、悦史と舞をあっと言わせる図が浮かぶ。
 ――いやいやいや、だめだめ。こんなあやしいのにひっかかっちゃ。
 冷静な自分に妄想から引きずり戻され、あたしは危うく踏みとどまった。
 いくら寂しいクリスマス決定だからって、いくらあの二人に復讐してやりたいからって、自分が犯罪にでも巻き込まれちゃ話にならない。
 きっとこんなうまいこと言って、ホイホイ付いて来た寂しい女の子を騙して、無理やりどっかに連れ去っちゃうとか、やばいビデオに出演させられちゃうとか、きっとそんなのの類なんだから!
 うんうん、と頷いてあたしはチラシをゴミ箱に思いっきり放り投げた。
 デート一日、一万円――デカデカとそう書かれた紙がひらひらと舞って、落ちていった。
 




「やっぱ、何もないや……」
 家に帰って、キッチンを探しても食べられそうなものは何もなかった。
 変なプライドで、夕食の買い物もしてこなかった自分を後悔するも、頭をぶんぶん振った。
 ――いやいや、やっぱプライドは大事だよ。
 自分で自分を慰めながらなんとかご飯を炊いて、インスタントの味噌汁と、一つだけ冷蔵庫にあった納豆をおかずに食べる。
 クリスマスイブイブの空しすぎるメニューにため息が出てくる。
 本当は今日もバイトが終わったら悦史と夕食に行くつもりだったのに。
 いくら頑張ってバイト代がもらえても、何も予定がなくなってしまってはどうしようもない。
 リビングで面白くもないテレビを見ているのも嫌になって、さっさとお風呂に入って寝ることにした。
 ――ああ、明日、レストランにキャンセルの電話しなきゃ。ライブ、見に行きたかったな……。
 どうしてもあきらめきれない思考はそればかりを辿って、部屋に戻っても眠れない。
 机の上に飾っておいたミニツリーも、悦史と遊園地に行った時の写真も、ムカムカしてゴミ箱に投げ入れる。
 ついでにベッドの枕元に置いてあったクマのぬいぐるみも手に取って――捨てようとして、結局胸に抱きしめた。
 遊園地のゲームコーナーで悦史が取ってくれたクマ。
『俺だと思って大事にしてくれよ』
 なんて笑ってくれた悦史の顔が浮かんできて、いつしかあたしは泣いていた。
 あんな最低の奴のために泣くなんて、泣く必要なんてないのに――。
 そう思うのに、止められない。
 ぽろぽろ涙があふれてきて、クマの白い毛が濡れていく。
 そしてさまよわせた視線に映ったのは、クラス遠足の時に撮った、友達との写真。
 舞と腕を組んでピースサインをしている、お気に入りの一枚。
「お気に入り、だったのに……」
 初めて声をかけてくれた舞のおかげでクラスにも溶け込むことができて、すっごく嬉しかった。
 中学の友達と離れて、一人だけ私立に行ってしまって寂しかったあたしにとって、舞は高校で初めてできた親友だった。
 それなのに、どうして――?
 悦史も、舞も大嫌いだ。
 平気で自分を裏切って、笑って……。
 腹が立って仕方がないはずなのに、それでも二人を憎みきれない自分がいることが一番嫌だった。
 あとからあとからこみ上げてくる涙を拭いていたら、ティッシュの箱が空になった。
「そうだ、さっき駅前で配ってたポケットティッシュ……」
 たくさんもらったティッシュを一つ出して、鼻をかむ。
 そして何気なく裏返して、あたしは目を瞠った。
「あれ、これ――」
 赤と緑の色彩。そして、『限定彼氏』の文字。
 さっきのチラシと同じ内容が書かれた紙が入れられたティッシュ。
 ――いつのまに、こんなの受け取ってたんだろう。
 何も考えずに歩きながら、次から次にもらったティッシュはカバンに入れていたから気づかなかった。
 ちょうどその時鳴った着信音にびくっとして、あわてて携帯を掴む。
 まさか、と頭に描いてしまった名前とは違う表示にがっかりして、同時にそんな自分に苛立った。
 ――まだ悦史からの電話なんか待ってるなんて。
 唇を噛みながら、電話に出る。
『あ、唯花? 久しぶり!』
「うわー智美? 元気してた? どうしたのー突然!」
 中学卒業以来だった智美からの電話に、気持ちが少し浮上する。
『うん、実はねー今度同窓会しようって話になっててさ、二年三組と四組のメンバーに声かけてるところ。唯花も来ない?』
「え、いついつ?」
『えっとね、クリスマスが終わって、年末前がいいだろうって、二十六日なんだけど――』
「あ、うん。空いてるよ」
 手帳に待ち合わせ場所と時間を書き終えたあたしに、智美が続ける。
『クリスマスデートの報告で盛り上がろうってリサたちと言ってたんだ〜! 唯花も彼氏できた? どんなだったか教えてねー!』
「うっ、うん――わかった。じゃあね!」
 咄嗟に出てきてしまった返事。何の疑いもなく電話を切った智美を責めるわけにもいかないし、かといって、嘘八百を並べ立てるなんてできない。
 久々に会った友達に失恋報告をしなきゃいけないなんて、余計にへこむよ……。
 会った途端に本当のことを説明して、みんなの幸せな報告を聞いて――そんな想像に耐えられなくなる。
 刻々と時を刻んでいく時計。
 クリスマスイブまで、あと二時間しかない。
 あと、一時間。あと、三十分……。
 時計を睨みつけながら無意味なカウントダウンを続けていたあたしの頭はついにパンクした。
 そう、パンクしてしまったのだ。
 だから無意識に手に取った――さっきのティッシュにはさまれていたチラシを。
 大きく書かれた二十四時間受付OKの文字に背中を押され、携帯電話を手に取り、ボタンを押していく。
『はい、こちらクリスマス限定彼氏、受付です』
 低い声に魔法をかけられたように、あたしは口を開いていた。
「あの……明日のクリスマスイブ、デートしてほしいんですけど……」
 ついに回してしまった運命の歯車。
 受話器の向こうで、見知らぬ『彼氏』が微笑んだような気がした。




 ――ああ、どうしよう。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 今になって正気に戻ったって遅いのに……どんどん怖くなってきた。
 クリスマスイブ、午前十一時。
 電話で決めた待ち合わせ場所である駅前に、あたしは立っていた。
 ううん、ぐるぐる歩き回っていたというべきか。
 それとも駅前ビルの柱にこっそり隠れていたというべきか。
 どちらでもあるんだけど、現在のあたしの行動は後者。
 最初は律儀に約束のクリスマスツリー前で待ってたんだけど、早く来てしまったのが災いした。
 段々理性が戻ってきて、本気でこんなことしてる自分が恐ろしくて、バカみたいで、今更後悔したのだ。
「ああ、もうあたしのバカ〜! なんであんな電話かけちゃったのよ〜」
 自分で罵ってみても、電話をかけた事実は変わらない。
 何かに操られるかのように、決めてしまったクリスマスデート。
 そう、『クリスマス限定彼氏』との――。
「やっぱり帰っちゃおうかな……あ、でもでも携帯番号教えちゃったし。あっ、かかってきても無視すればいいんじゃ……でも万が一変な会社で個人情報とか筒抜けで、家にまで殴りこんでこられたら一体どうすれば――ああーっもう! そもそも悦史が悪いんだからねっ!」
 思い出すだけでまだ胸がしめつけられるみたいに苦しくなる、昨日の二人の裏切り現場。
 一生懸命に内緒でバイトして、準備した夢のクリスマスデートが粉々に崩れたのも、何もかもあの最低男が悪いんだ。
 ムカムカしてきたら、もうどうでもよくなってきて、あたしはついに決意と共にクリスマスツリー前に移動した。
 ――でも、やっぱり怖い……。
 戻ろうか、と一歩足を踏み出しかけたその時だった。
「えっと――田丸唯花ちゃん?」
 低い声があたしを呼んだ。
 振り向いたら、そこにいたのは百八十はある長身で、細身のスタイル抜群な男の子。
 さらりと流れた髪は意外にも黒で、同じ黒のダウンジャケットに、シンプルなシワ加工のデニムが長い足に似合っている。
「昨日予約してもらった、限定彼氏のトウヤです。今日一日よろしくね」
 優しい瞳で覗き込んで、限定彼氏――トウヤくんがウインクする。
「はっ、はははは……はいっ!」
 なぜか上ずった声で答えたあたしに、彼は爽やかに笑った。
「はは、緊張しすぎ。俺、唯花ちゃんと同い年だからさ。もっとリラックスリラックス! ねっ?」
 シルバーの指輪をはめた綺麗な手で肩を優しく叩かれて、あたしは頷く。
 ――なんだ……なんかもっとホストみたいなお兄さんが来るのかと思ってたら、意外と普通じゃない。
 さっきまであれやこれやと想像して怯えていた自分が少し恥ずかしくなる。
 そういえば、昨夜予約した時に好みのタイプとかあれこれ聞かれた気がするけど、正気じゃなかったから何を答えたのか自分でも覚えていなかったのだ。
「そのボアジャケット、可愛いね。バッグもお揃いじゃん」
 まるで雪みたいな真っ白のボアジャケットと、ぬいぐるみみたいな、もこもこバッグ――雑誌で見つけて一目ぼれしたセット。
 この日のために買ったアイテムを早速褒められて嬉しくなる。
 と、同時にまた悲しくなった。
 これを着て悦史とデートするのを夢見ていたのに――。
「黒と白で、俺たちオセロみたい? なんつって――シンプルが好きって聞いてたからこれで来たけど、俺ももちっと張り切ってお洒落してくればよかったかな? あっ、でもでも、男は女の子の引き立て役で十分だからいいよね。唯花ちゃん、すっげー可愛いし、張り切って引き立てちゃうからね、俺!」
 ははは、と明るく笑われて、あたしは顔を上げた。
 見下ろしてくれてる瞳が実はすごく優しいことに気づいて、思わず頬を押さえてしまう。
 初めて会ったはずなのに、なぜかどこかで会ったことがあるような――自然と緊張をほぐしてくれるような雰囲気を持ってる彼。
 ――こんな初対面の子に赤くなるなんて、あたしってば現金、なのかな?
「あ、あの――お金」
 思い出して、財布を取り出そうとしたあたしの手を、トウヤくんがそっと止める。
「お代はデートの終わりに。それまでは俺のこと、本物の彼氏と思っていいんだよ。俺も彼女と思うからさ、唯花ちゃん」
「あ、うん……ありがとう」
 なぜかお礼を言ってしまった。
 言いたくなるくらいに優しい微笑み、優しい言葉。
 これがお金の付き合いだなんて、信じられないくらいに……。
 まあ、いいや。
 せっかくのクリスマスだもん。
 もう何も考えずに楽しもう。
 楽しんで、楽しんで、悦史も舞も悔しがるくらいに楽しんで――こんなモヤモヤした気持ち、吹き飛ばしちゃうんだ!
 



 クリスマス限定彼氏、ルールその一。
『限定彼氏』は『依頼人』の許可なしに行動しないこと。
 何をするにも必ず、『依頼人』の気持ちを優先する。
 ルール、その二。
『限定彼氏』は『依頼人』を楽しませるべく、全力を尽くすこと。
 契約履行日の間中は、本物の恋人同士だと思って行動すること。
 そして、ルール、その三。
『限定彼氏』と『依頼人』はお互いに干渉しないこと。
 以上の三原則厳守とし、『限定彼氏』がもしも原則を破った場合においては厳しく罰せられ、また、『依頼人』は限定デートに関わる費用を一切払わなくてよいこととする。
 さりげなく渡された紙の内容を読んで、あたしは改めてほっとしていた。
 そんな子には見えないけど、万が一ってこともある。デートは全部人目の多い場所だし、何かされたらすぐにこれを鳴らせばいいんだから。
 バッグの中に忍ばせてある防犯ブザーをそっと手で確認する。
 いつ何があるかわからないから、とお母さんに渡されたものなんだけど、まさかこんなことに使うとは思ってなかった。
 そんなことを考えているあたしのことなど露知らず、目の前でトウヤくんはおいしそうにハンバーガーをほおばっている。ちなみに代金はきっちり割り勘だ。
「もっと他のところでもいいのに、本当にファーストフードでよかったの?」
 ポテトをつまみながら訊ねるトウヤくんに、あたしは頷く。
「うん。ディナーは予約してあるし、ランチくらい気楽に食べようと思って。トウヤくん、ハンバーガー嫌いだった?」
「ううん、俺は何でもOK。賞味期限切れの牛乳飲んでも、腹壊したこともないくらい健康だし!」
 変なところで胸を張ってみせるトウヤくんを見つめて、思わず吹き出してしまう。
「あれ、俺なんか変なこと言った? あ、さては疑ってるなー? 本当だってば! 最高で八日間過ぎたやつ飲んだことあるんだからっ」
「そんなの自慢にならないし。もうおっかしートウヤくんってば」
 笑いながら言ったら、トウヤくんは瞳を細めてあたしを見つめた。
「な、何?」
 なんだかドキドキして訊ねると、にかっと笑い返される。
「初めてトウヤって呼んでくれた。嬉しいな」
 耳まで熱くなって、たぶん真っ赤であろう頬を片手で扇いで、あたしは目線をそらした。
「やだ、そんな風に言われたら照れちゃうよ〜」
 冗談めかして言ってみても、トウヤくんは笑顔を崩さずに小首を傾げる。
「なんで? 俺、マジで嬉しいんだもん。こんなことで照れちゃうなんて、唯花ちゃんって可愛いよね」
「もっ、もうやめて〜お願い!」
 テーブルに突っ伏したあたしに、今度はトウヤくんが吹き出した。
 ――なんだか変な気分。
『限定彼氏』とかそんなの忘れちゃってた。
 あんなあやしげなチラシで出会ったなんて嘘みたいに、トウヤくんはさらっとあたしの警戒心を解いて、笑う。
 まるで普通のクラスメイトとランチしてるみたいで、いつしかあたしは普段どおりに話せるようになっていた。
 気軽な昼食が終わって、ライブ会場へと移動する。
 地下鉄の切符を買うのにもたもたしているトウヤくんを見て、つい笑ってしまった。
「俺、普段バイクばっかだからさ、なんか慣れてなくって。やばっ、幻滅した?」
 恥ずかしそうに戻ってくるトウヤくんに、あたしは首を振る。
「ううん、むしろほっとした。すっごい女慣れしたホストみたいなお兄さんが来たら、あたしきっと帰っちゃってたかも……」
「はは、そんな兄ちゃんもいるんだけどね。俺はもともとやるつもりじゃなかったぐらいだから――」
「え?」
「あ、いや、何でも。ほらっ、行こう!」
 切符を無事買ったトウヤくんに促されて、あたしは地下鉄の改札を通り抜けた。
 学生らしいカップルがたくさんいて、時には通り過ぎる女の子たちもトウヤくんを見ている。
 それもそのはず、さりげないのにかっこよくて、普通に歩いてるだけなのになぜか目立つのだ。
 その後をついていくのが自分であることに、なぜだか少し優越感を感じたりして――。
 ――あたしってば、何考えてるんだろ。
 本当の『彼氏』でもないくせに、こうしてトウヤくんといることをいつの間にか楽しんでる。
 昨日振られたばかりなのに、こんなことしてるなんて……。
 目の前で繰り広げられた悦史と舞の会話、自分の悪口、空しさと悲しみ、全部が背中に圧し掛かってきて、頭を振る。
「どうしたの? 唯花ちゃん。頭でも痛い?」
 ふと見れば心配そうに足を止めてくれているトウヤくんがいて、あたしはあわてて嫌な映像を脳内から追い払った。
「ううん、何でもない!」
 笑顔を浮かべてついていくと、トウヤくんが片手を差し出した。
 思わず見上げると、照れたように鼻をかいたりしながら、「混んでるから――嫌かな?」なんて訊ねてくる。
 ルールその一、『依頼人』の許可なしに行動しないこと――に基づく質問だろうとはわかっても、なぜかこそばゆい。
「いいよ――」
 答えてその手をとったら、トウヤくんはにこっと笑ってあたたかい手で包んでくれた。




「実は俺、このライブ見たかったんだ」
 熱気にあふれたライブ会場に到着して初めて、トウヤくんがそう言った。
「え、本当? クリスタルツリー好きなの?」
 今から始まるライブのメインバンドの名前を出して訊ねたら、トウヤくんはまた鼻をかきながら頷いた。
 その頬はちょっぴり赤くて、どうやら照れてる時の仕草らしいってことがわかる。
「そうなんだー女の子のファンが多いと思ってたけど、男の子でも好きな人いるんだね!」
 会場も八割は女性ファンだし、悦史も今から思えばあまり乗り気じゃなかったことを思いだして答える。
 意外なことにちょっと憤慨しながらトウヤくんがあたしを見下ろした。
「そりゃあ女の子ファンが多いけど、ちゃんと男だってファンはいるんだぜ? クリスタルツリーの歌詞、めちゃいいんだから……」
 照れたような小さな呟きに、あたしも嬉しくなってトウヤくんを見上げる。
「そうだよねっ? あたしも歌詞が大好きなの! 特に、代表曲のクリスタル――」
「水晶のように、きらきら輝く自分でいたい、だろ?」
「そうそう! わーっ、おんなじ!」
 つい興奮して飛びついてしまってから、トウヤくんが戸惑ったように動きを止めたことで、あわてて気づく。
「あ、ご、ごめん、つい――」
「ううん、大丈夫」
 そう言うものの、トウヤくんの頬は真っ赤で、あたしにまで伝染してくる。
 そう、まるでクリスタルツリーの歌詞みたいに――。
『あなたが笑うから、あたしも笑う。二つの真っ赤なりんごみたいに、仲良く染まる二人は運命の恋人』
 心に浮かんだそのままの歌詞で始まる歌で、いきなりライブは始まった。
 クリスタルツリーのデビュー曲、『偶然の二人、運命の恋人』だ。
 みんなが立ち上がって、あたしたちも並んで立つ。
 ステージを見つめるトウヤくんの頬はまだ赤いような気がして、あたしは無理やり視線を逸らした。
 このままだと、なぜか何度も見つめてしまいそうだったから――。
 ライブは大成功で、いつしかあたしとトウヤくんの距離は縮まっていた。



 ディナーの予約をしたレストランに向かいながら、トウヤくんとあたしは手をつないでいた。
 クリスマスのイルミネーションがきらきら輝く街の中を、他のカップルたちと同じように仲良く歩く。
 昨日までは悦史とデートするはずだったのに、今日はこうしてトウヤくんといるなんて――。
「なんか、不思議……」
 思わず呟いてしまったことでトウヤくんが振り向いて、あたしはあわてたように俯く。
「あたしね――振られちゃったんだ」
 話すつもりなんてなかったのに、なぜかするりと口からこぼれた言葉。
「唯花ちゃん……」
 無理しなくていいよ、と言ってくれてる眼差しに首を振って、あたしは笑った。
「自分が話したい場合はいいんだよね? 誰にも言えないから……トウヤくんに独り言」
 笑った、つもりだったけど――ゆがんだ口元をマフラーで隠して、続ける。
「付き合ってからは一ヶ月しか経ってなかったけど、あたしはその前からずっと気になってて――告白された時はすごく嬉しかったんだ。それなのに、あっさり振られちゃった。親友だと思ってた子が実は元カノで、こっそりヨリ戻してんの。ひどいと思わない? それなら紹介なんかしなきゃいいのに……」
 ――トウヤくんには関係ないのに、何言ってんの。
 冷静な自分がそう言ってるけど、ずっとわだかまってた思いは一度あふれたら止まらなかった。
「初めてのクリスマスはロマンチックに、楽しくって夢見てたから――彼にも内緒で一生懸命バイトして、こうやって可愛い服も買って、大好きなバンドとお洒落なディナーで素敵な夜にしたかった。それなのに、あたし一人バカみたい……っ」
 ついに抑え切れなくて嗚咽に変わりかけたその瞬間。
 腕を引かれて、トウヤくんの胸の中に抱き寄せられた。
「ト、トウヤくん――?」
 呼んだ声にもトウヤくんは腕の力を緩めなくて、そのまま抱きしめられたまま。
 そこが街頭であることも、道行く人たちに見られていることも、わかっているのに動けなくて――。
 温かい体温に引き寄せられるように、あたしは目の前の胸に頭を預けてしまう。
 冷たい風も、騒音も、何もかもが遠のいていく。
 涙はいつの間にか引いていて、トウヤくんの腕の中が心地よくて、きらきらしたイルミネーションの海に流れていきそうな気がした。
「ゆ、唯花……?」
 唐突に背後から聞こえた声に、びくりとする。
 だってそれは、こんなところにいるはずのない、今一番会いたくない人物の――。
「ちょっと〜待ってよ悦史! って、あ――唯花!?」
 すぐ後に追いかけてきたのは舞の驚愕の声で、デートの最中なのか、たまたま通りかかったのか、一番見たくない二人を見てしまったのだ。
「悦史、舞……」
 一気に現実に引き戻されて、そのまま名前を呼んだあたしに、トウヤくんも二人に顔を向けた。
「な、なんだよそいつ――何やってんの、こんな街中で」
 なぜか不機嫌そうに悦史が訊ねてくる。
 その腕を引いたのは舞で、あたしをまっすぐに見ないまま口を開いた。
「あの、さ――唯花には言ってなかったけど――あたしら、実は――」
「知ってる」
 言いかける舞の言葉を聞きたくなくて、被せるように大きな声を出してしまう。
「二人、付き合ってたんでしょ? それでヨリ戻したんだよね。知ってるから、もう何も言わないで」
「えっ、な、なんで知って……」
 あせったような悦史と舞を視界から外して、ただ俯くあたし。
 その態度が責めてるように見えたのか、悦史が怒ったように近づいてきた。
「急に振ったのは悪いと思ってるけどさあ……でも、唯花。お前も結構簡単に次の男見つけてんじゃん。こんなとこで堂々と抱き合ったりしてさ――よかったんじゃね? 俺に振られといて」
 最低の一言に目を見開いたあたしが動くよりも先に、行動したのはトウヤくんだった。
 側にそっと佇んでいてくれたトウヤくんが、悦史から守るようにあたしの肩に腕を回したのだ。
「そうだね。こんな最低の男、さっさと別れてよかったよ。おかげで俺がこうして唯花と出会えたんだからさ」
 飄々と笑顔で言ってのけたトウヤくんに、悦史が顔をゆがめる。
「なっ、何だとっ!? おい、よくも言ってくれたな――」
 怒りに顔を赤くしてつかみかかってきた悦史の襟首を瞬時に掴んで、トウヤくんが一転して冷たい瞳で睨みつける。
「これ以上俺の唯花に嫌な思いさせてみろ。ただじゃすまさない」
「う――」
 言い返そうとしても、力でも迫力でも負けたらしい悦史は顔色を変えて目をそらした。
「えっ、悦史。いこっ!」
 あせった舞に引っ張られるようにして逃げていく悦史。
 一瞬だけ舞とかちあった目線は気まずそうにそらされて、あたしは何も言えずに見送る。
 全く罪悪感がないわけではないらしい舞の態度には少しは気が晴れたものの、ずっと好きだった相手があんな男だったことにも、そんな自分にも幻滅していたのだ。
「ごめんね、唯花ちゃん」
 急に声をかけられて振り返ったら、トウヤくんがすまなそうに肩を落としていた。
「えっ、どうしてトウヤくんが謝るの? あたし、すっごくせいせいしたよ! あんな男好きだったなんて本当バッカみたい。あれだけ言ってくれてスッキリしたもん!」
 両手を振って言ったら、ちょっと笑ってトウヤくんは鼻をかいている。
「いや、そのこともだけど――さっきの……俺、ルール破っちゃった、かも」
「え……」
 心なしか赤い顔で俯くトウヤくんを見ながら、蘇ってきたのはさっきの抱擁。
 途端に自分の顔も赤くなっていくのがわかる。
「あ、でっでも――あたしが嫌じゃなかったら、ルール違反にはならないんだよね? だっ、大丈夫! あたし、嬉しかっ……」
 ――きゃーっ、何を言ってるんだ、あたしってば!
 トウヤくんが罰則とか受けないように、と言い添えたはずの言葉は、本当に本心だったから。
「唯花ちゃん……」
 ほっとしたように呼ばれたけれど、これ以上おかしなことを口走らないうちに――というより、自分がおかしくならないうちに、とあたしはわざとおどけて先を行く。
「さっ、いよいよデートのメインイベント! ディナーへレッツゴー!」
 拳を上げたら、ぷっと笑ってくれたトウヤくんは、そのままあたしに付いてきてくれた。





 フレンチカジュアルレストラン、雑誌で話題の穴場で、かしこまりすぎないから若者にも人気で、クリスマスディナーには最適のスポット――の、はずなのに……。
「えっ、予約がないなんて――そんなはずないですっ! あの、確かに二十四日、田丸で受けてもらってるはずで……もう一度確かめてくださいっ!」
 泣きつくあたしに、黒いスーツのお兄さんはすまなさそうに首を振る。
「申し訳ございません、お客様。おそらく何かの手違いでは、と……田丸様での予約は、本日承っておりません」
 さっきから何度も繰り返された内容がどうしても信じられなくて、あたしは白いもこもこバッグから念のためと持ってきていた雑誌の切抜きを取り出した。
「ほらっ、ここ見てください、ここ! 確かに予約済みってちゃんと書いて――」
 お店の電話番号が並んでいる欄を指差して、そう訴えるあたしに圧されたように覗き込んだお兄さんは、困ったような顔をしてあたしを見下ろした。
 ――ほらね、やっぱりちゃんと予約して……。
「お客様、これは当店の電話番号ではありませんが」
「えっ? そ、そんなはず……」
 営業用スマイルに抗議しようと見直した雑誌のページ。
 そこに見つけた文字に思わず瞳を見開いてしまった。
「そっ、そんなあ――」
 ついにへたへたとその場に崩れ落ちてしまうあたし。
 フレンチカジュアルレストラン、ファミーユ――そう書かれた下にしっかりと続いているのは、ファミリーカジュアルレストラン、ファミーユ、の文字と電話番号。
 ご丁寧にピンク色のペンでしっかり星印を付けてあるのは、もちろん後者のほうだったのだ。
「ご、ごめんね、トウヤくん……」
 がっくりと肩を落とすあたしに、トウヤくんは優しい笑顔。
「いいよ、俺は別にどこでも。それにしてもこれじゃあ間違っちゃうよな……ややこしい載せ方すんなって俺が抗議してやる!」
 ふざけてみせてくれる明るい態度に励まされるものの、落ち着いた照明、シックなインテリア、そして店内の大きなクリスマスツリーが見える背後の店があきらめきれずにあたしは小さく笑うしかできなかった。
「ここも一応イタリアン、軽食って書いてあるし――予約したから行こうか。場所も近いみたいだしね」
 心では泣く泣く、顔には出さずに言ってみたつもりだったけど、トウヤくんはお見通しのようだった。
 黙ってあたしを見下ろしていたかと思うと、アップにした髪の毛のてっぺんをぽんぽん、と優しく叩いたのだ。
「ちょっと待ってて」
 人差し指を軽く立ててどこかに電話したかと思うと、こそこそと二言三言話して、あたしに向き直る。
「オッケーだって。おいで、唯花ちゃん」
「えっ、何――」
 戸惑うあたしの手を引いて、トウヤくんが歩き出す。
 タクシーを拾って、乗せられてからはトウヤくんは無言で、ドキドキする一方でなぜか少し怖くなる。
 ――優しくしてくれてたけど、もしかしてやっぱり本当は何か危ない目にあうんじゃ……!
 なんて心配が胸に渦巻いて、あともう少し長引いていたら、タクシーを降りたくなるほどだった。
 しかも着いた先は無人のビルで、電気もついていない正面入り口に向かって歩いていくトウヤくんに本当についていっていいのか疑ってしまう。
 でも何の迷いもなく歩いていくトウヤくんの背中と、あたたかい手に導かれて、あたしは連れられるまま自動ドアへと向かった。
「さあ、唯花ちゃん。そこに立ってみて」
 トウヤくんの合図で、言われるままにドアの前に立つ。
 すると次の瞬間、ぱあっと明るい光が降り注いできて、あたしは思わず片手をかざした。
「こっ、これ――」
 目の前にそびえていたのは、大きな、大きなクリスマスツリー。
 真っ白な電飾に、青い光がチカチカと点滅して、静かにきらめく美しいイルミネーションだったのだ。
「あの、これって――っていうか、ここ、どこかの会社……?」
「まあいいからいいから。気にせず入って。ディナーは最上階に用意してもらったから」
「えっ、でっ、でも……っ!」
 強引に引っ張られるままビルの中に入ると、順に電気がついて、エレベーターも作動する。
「『限定彼氏』関連のビルだから、心配いらないよ」
 言って片目を閉じてみせるトウヤくんに、やっとほっとする。
 そして案内された最上階はワンフロアになっていて、ゴージャスな雰囲気のテーブルセットやソファーが並んでいた。
 一面ガラスの窓際にセットされたテーブルの上にはフレンチコース。
 今届けられたばかりのように、湯気が立つスープやおいしそうなお肉にサラダ。
 まるで夢そのものの完璧なディナーに、あたしはもう言葉を失っていた。
 今までの悲しい出来事も、何もかも忘れられるくらいに最高の演出。
 だけど、食事をしながらあたしは気づいたんだ――。
 あたしを本当に癒してくれたのは、目の前にいる、トウヤくんの笑顔だってことを。



「俺にもさ、忘れられない女の子がいるんだ……」
 食事を終えて、ぽつりと言ったトウヤくんにあたしは弾かれたように顔を上げた。
 きらきら煌く都会の夜景。夢みたいなディナー。完璧な『彼氏』――その幸せな光景に、ぴしりとヒビが入った瞬間だった。
「中学の頃、俺、今じゃ考えられないかもしれないけど、すっげー小心者でさ。ずっと気になってる女の子がいたんだけど、一度も声もかけられなくて、何度も頑張ろうって思ったけど、話をしたのは一度きり――だけどその一度でも十分その子の魅力は伝わってきてさ。俺、バカみたいだけど今でも忘れられないんだよね」
 ――なんで、そんな話をするの?
 そう訊ねたい気持ちをぐっと堪えて、あたしはただ相槌を打つ。
 少し照れたような顔をして、トウヤくんは夜景を見つめる。
「結局、二年の夏に俺、引っ越しちゃったからなんにも接点はなかったんだけど……ずっとどうしてるかなって思ってたりしてさ」
「ふうん……」
 力のない声にも気づかないのか、トウヤくんは鼻をかきながらあたしに向き直った。
「唯花ちゃんだったらどう思う? もしもまた出会えたら、その時こそ告白したほうがいいと思う?」
 ――やめてよ、そんな風に照れくさそうな、幸せそうな顔で――他の女の子の話なんかしないで。
 自分で考えてしまってから、あたしは無意識に水のグラスを置いていた。
 そこに映る自分の強張った顔。
 まるで、嫉妬してるみたいな――。
「い、いいんじゃない? トウヤくんならきっとどんな子でもいちころだよ! 昔はどうかわからないけど、今のトウヤくん、すごく魅力的だもん。告白されて、喜ばない子なんていないと思うし――だ、だから……」
「――唯花ちゃん?」
 普通に話したいのに、なぜか声が震える。
 ――何やってんだろう、あたし。
 どうしたの、と自分で自分を遠くに感じながら、それでもあたしは立ち上がっていた。
 ガタン、と後ろに引いたイスの音がすごく大きく響いて、トウヤくんは驚いたように言葉を止める。
「もしも出会えたら、また告白してみたらいいと思う。じゃ、じゃああたしはこれで! 今日は本当にありがとう! ごちそうさま――すごく、楽しかった……」
 熱いしずくが流れ落ちて、それ以上言うことはできなかった。
 急に泣き出したあたしにトウヤくんは目を丸くしていたけど、引きとめようとしたのか席を立つ。
 追いかけてこられないように、あたしは財布から出した新札をわざと見せ付けるようにテーブルに置いた。
『限定彼氏』とのデート料金、一万円。
 その場の微妙な空気なんか一瞬で冷めてしまうような、薄っぺらい紙切れ。
 戸惑ったみたいに足を止めたトウヤくんから目をそらして、あたしはエレベーターに向かって駆け出したのだった。




 ――バカなあたし、何を夢見ていたんだろう。
 本物の彼氏でもないのに、ただの契約で結ばれていただけの関係だったのに、何かあたたかい絆ができたような気さえしてた。
 トウヤくんがこの仕事をしていなければ、あたしが悦史に振られていなければ、出会うこともなかった二人。
 所詮は一日だけの嘘の恋人――。
 なのに本気で大切にされてるかのような錯覚までして。
 トウヤくんには忘れられない女の子がいて、あたしとのことなんてただの仕事で……。
「うっ……うえっ……」
 走って走ってたどり着いた地下鉄の駅で、あたしはいつしか泣き出していた。
 周りには幸せなカップルがたくさんいて、イブの夜を楽しんでる。
 あたしもさっきまでは確かにあの中にいたと思ったのに、そんなのただの幻想でしかなかったんだ。
 こんな空しい思いをするなら、『限定彼氏』なんて頼むんじゃなかった――!
 どこをどう歩いて、どうやって家までたどり着いたのかもわからなかったけれど、あたしはそのままベッドに突っ伏していた。
 振られた相手は悦史のはずなのに、今こうして考えてるのはトウヤくんのことばかり。
 トウヤくんの笑顔、トウヤくんの手のひら、トウヤくんの体温――忘れられなくなってるのは、あたしのほう。
 悦史に振られた時には、こんなに切なくなかった。
 ずっと好きだったから――好きだと思ってたから、裏切られたことがショックで、悲しくて、辛かった。
 だけど、こんな風に苦しくて、苦しくて、どうしようもないほどに考えてしまうなんて、初めてだった。
 ――あたし……トウヤくんのこと――。
 たった一日だけなのに。
 そう思っても、もう胸に芽生えてしまった想いを消すことはできなかった。
 本当の彼のことも、何も知らないくせに、どうして――?
 自分に問いかけても、やっぱり思い出すのはトウヤくんと過ごしたきらきらした時間だけ。
 宝石みたいに綺麗で、楽しくて、大切なクリスマスの思い出――初めての、『恋人』とのクリスマスデート。
「好き、なんだ……」
 口に出してみたら、もっと想いが強くなって。
 あたしは涙を拭って苦笑いした。
「あたしってほんとにバカ――もう二度と会えないのに」
 笑いはゆがんで、嗚咽に変わる。
『限定彼氏』と過ごしたクリスマスイブの夜、あたしは二度目の失恋をした。





 もしかして鳴らないかなんて期待ばかりするのが嫌で、携帯の電源も切っていたあたしはその翌日、クリスマスも過ぎた二十六日の午後になってやっと思い出した。
「やば……今日、同窓会!」
 智美に言われていた午後五時半の待ち合わせまであと三十分、というときになってあわててベッドから起き上がる。
 そんな気分じゃなかったけど、行かないことの言い訳をするほうが嫌で、結局そそくさと準備を整えて、家を出た。
 幸いなことに場所は徒歩十分の地元駅前カラオケ店。
 商店街もクリスマスを過ぎれば一気に年末ムードで、一昨日の傷を思い出さないで済んだ。
 出掛けに急いでひっかけてきてしまった白いボアジャケットと、そのまま持ってきたもこもこバッグだけがちくちくとあたしを刺しているようだったけど。
 できるだけ無視してカラオケ店に到着した。
「あ、唯花〜! こっちこっち!」
「きゃー久しぶり! 元気だったー!?」
 歓迎されて、旧友たちに笑いかけられて、気分は少し浮上する。
 女の子たちだけでなく男の子たちも続々と集まっていて、中には中学時代に告白された子もいたりして、また複雑な気持ちになりかけて、あたしは首を振った。
 ――そういえば、あの子だけはあたしの気持ち、わかってくれたっけ……。
 当時から外見だけでもてはやされて、見ず知らずの人からも告白されることが多かったあたしは、女の子からやっかまれたり、ライバル視されたりすることもあって。
 余計かたくなに告白を断り続けていたんだけど、やっぱり逆ギレするような人もいたから、よく校舎の裏で泣いたりしてた。
『誰も本当のあたしなんか知らないくせに……』
 非常階段の下の隙間で、そう呟いたら、思いがけずにそこには他の男の子がいて――。
『本当の自分をわかってくれる相手が、きっと現れるよ』なんて言ってくれたことを覚えてる。
 クラスも違ったし、それ以来話をしたことはなかったけど、メガネをかけた、優しい印象の大人しげな子だった。
 もう顔もはっきり覚えてないけど、あの子は元気にしてるのかな……。
 懐かしい思い出に一瞬ひたりかけてたあたしを引き戻したのは、智美の声だった。
「ねえねえ、唯花はクリスマス、どうだったの?」
「そうそう、ねえ、彼氏いるんでしょ? 聞かせて聞かせてー!」
 まだ受付も終わってないのに、テンションの高い友人たちに迫られて、あたしは苦笑い。
「ど、どうだったって言われても……」
「唯花、中学の時よりもっと綺麗になったもん。モテモテなんじゃないのー?」
「そうだよーもったいぶらないで教えてよ!」
 肘で突付かれて困るあたしを、いつの間にか取り囲む男の子たち。
 ニヤニヤしながら見てくる彼らがなぜか中学の頃と重なって、あたしは立ちすくむ。
 ――まただ。
 また、あたしを外見でしか見ない人たち。
 結局あたしはまた演じなければいけないんだろうか、可愛くて女の子らしい『田丸唯花ちゃん』を――。
 ため息を深くついた、その時だった。
 入り口のドアが開いて、背の高い人影が入ってきたのだ。
 黒い髪、長身で、スタイルのいい男の子。
 あの時のままの優しい瞳に、あたしは思わず声を上げた。
「トッ、トウヤくん――?」
 叫んでしまったあたしの声でみんなが振り向き、そして男の子たちの一部が言ったのだ。
「あっ、本当だ。お前、トウヤじゃん! うわーマジで? お前親父の転勤で海外行ってたんじゃねーの?」
「久しぶりー! っていうかお前、えらい男前になってるし! メガネ、コンタクトにしたんだ?」
 口々に色々なことを言う男の子たちに手を上げて合図するトウヤくん。
 ――って、え……トウヤくんって本名?
「そうだよ、こうすればわかるかな?」
 あたしのほうを見て質問に答えたトウヤくんは、いたずらっぽい笑顔で懐から黒いメガネを取り出して、かけてみせたのだ。
「やっぱり覚えてなかったんだ」
 さっさとメガネを直して笑う彼の顔をまじまじと見て、あたしは息を呑んでいた。
 ――だって、あの時の――。
 皆に迎えられ、堂々と歩いてきたトウヤくんは、あたしの正面で立ち止まって、片手を差し出した。
「初めまして、いや、久しぶりっていうべきかな。俺、東谷とうや雪人ゆきと――君と同じ中学だった、同級生だよ」
 ウインクしたトウヤくん――いや、東谷くんの笑顔に、あたしは目をぱちくりさせるしかできなかった。





 ☆





 あの後同窓会で散々つっこまれたあたしたちは、トイレに立った隙に結局二人で抜け出した。
 それでもっと噂を立てられたみたいだけど、本当の再会の話はもちろん、二人だけの秘密だ。
「やっぱりずるいよ、東谷くん――なんで最初から言ってくれなかったの?」
 あれから何度も責めたあたしに、東谷くんは降参、とでも言うかのように両手をあげて、笑う。
「ごめんごめん。だからあの時言おうとしたのに、急に帰っちゃうんだもんな――勝手に早とちりした唯花が悪いんだよ」
「って、全然反省してないじゃない! そもそも『限定彼氏』なんて嘘だったって言ってくれればよかったのに……」
 どれだけ悩んで、どれだけ心配してあの場に行ったか考えると、今でもバカらしくなる。
 だけど東谷くんは全く悪びれずに言うのだ。
「だって全くの嘘じゃないし――兄貴が短期集中ビジネス始めるから手伝えって半強制的にやらされたんだもん。適当に断るつもりが、事務所に行ったら、唯花の名前を見つけたからさ。こりゃあ何が何でも俺が行かなきゃってね。まさかって思ったけど、本当に唯花だったんだもんな。いやーそれにしてもそれが縁で唯花と再会できたんだから、『限定彼氏』さまさまだよ」
「そりゃ、そうだったかもしれないけど……だったらはじめからそう言ってくれれば……」
 まだ悔しくてぶつぶつ呟くあたしの頭をくしゃくしゃかき回して、東谷くんは先を歩く。
 すっかり新年のお祝いムード一色の街中で、やっぱり目立つその背中を追いかけた。
「じゃあ、他の女の子だったら行かなかったの?」
 迷った挙句に訊ねたら、嬉しそうに振り返った東谷くんがあたしを覗き込んでくる。
「おっ、妬いてくれてんの? 大丈夫、俺は唯花ひとすじだから」
「――もう、そういうストレートなこと言われると、どうしていいかわかんない。やっぱアメリカで培ったわけ? そういうの」
二年の夏に引っ越したってのはアメリカで、最近戻ってきたばっかりだってこととか、実は彼の忘れられなかった女の子は自分だったってこととか、いまだに信じられないことばかりなわけなんだけど――とにかく、あれからあたしたちは本物の『恋人』になった。
『クリスマス限定』じゃなく、『無期限』の恋人同士。
 こうして考えてみても、まるでクリスマスの奇跡だ。サンタなんてもう信じる年じゃないけど、今年だけはロマンチックに考えてしまった。
 ――東谷くんともう一度出会わせてくれて、ありがとう――なんて。
「ねえ、中学の時、あたしのことなんで好きになったの?」
 勇気を出して聞いてみて、やっぱり照れくさくなったあたしは「ん?」と振り返った東谷くんに首を振った。
「なんでもない。ほらっ、行こ! 初詣!」
 懐かしい中学校の裏手にある神社を目指して、東谷くんのバイクにまたがる。
「俺もずっと、真面目でいい子の自分を演じてたからだよ――」
 なんていう彼の言葉は、風に紛れてあたしには届かなかったのだけれど。
 今日も東谷くんとのデートが始まることが嬉しくて、あたしは笑った。
 ――あの時払った一万円の、無期限返済デートがね。
「来年のクリスマスはさ、ちゃんとやろうよ」
「え、何を?」
 聞いた途端、重なった唇。
 振り向いた東谷くんにキスされたんだと気づいた時には、もうヘルメットを被せられていて――。
「夢だったんだろ? クリスマスツリーの前でのキス。今度はちゃんと『本物』のデートでさ――」
 囁いて前を向いた東谷くんの耳が赤くて、あたしまでつられて赤くなる。
「……バカ」
 後でもらしたあたしの『夢』をちゃんと覚えていてくれたらしい一言に、そっと笑う。
 初めてのキスは、不器用で優しい味がした。



 
 
 
 
 END
 

  


 


 

 

  

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