捕らえる。
捕らわれる。
どっちがいい?
耳元で囁く声がする。
もちろん幻聴だってことぐらいわかってる。
目の前で妖しく微笑む瞳に吸い寄せられていく。
例えばこんな絶体絶命な状況で、目の前にぶら下がる誘惑の果実を拒否できる女がいるだろうか。
先生――私はそう呼ばれることに憧れてた。
教職免許がとれてたら、絶対教壇に立っていただろう。
けれど気づけば夢破れて、普通の会社で事務職なんてやっていて。
いつの間にか二十代も半ばに差し掛かって、そんな夢を持ってたことさえ忘れてた。
ううん、きっと思い出すこともなかっただろう。
ふと手に取った求職雑誌で、ある広告を見つけるまでは――。
『家庭教師募集』
そう書かれた文字を見つけたのも偶然。
友達と待ち合わせをしてたカフェで、退屈しのぎに一番薄いものをラックから選んだだけ。
ぼんやり捲っていてコーヒーをこぼしてしまった箇所が、そこだったという理由。
今の会社の待遇には満足していたから、転職するつもりなんてなかった。
それに、紛いなりにも正社員という肩書きを捨ててしまえば、自分には何の価値もないことがわかっていたから。
あわてて紙ナプキンで茶色いシミを吸い取っていた私の目が吸い寄せられたのは、次の行。
『勤務時間、夜十時から十二時。副業OK、登録は得意科目だけでも可。週二回、二時間程度。学ぶ熱意を助けてくれる、愛ある指導者を待っています』
勤務場所は担当に寄って変わり、交通費は別途支給、という項目まで読み終える頃には、コーヒーを拭き取ることなど忘れてしまっていた。
唯一時間帯が遅すぎることが気になったものの、よく読んでみると塾や予備校が終わってからも自宅で勉強したい熱心な生徒の需要あり、という説明書きに納得する。
仕事を続けながら副業としてやるにはちょうどいい条件だったし、何よりそこまで勉強熱心な学生を教えることができるなんて、と考えてわくわくした。
忘れていた教育への夢を刺激され、友達との会話にも上の空になってしまうほどに。
短大入学と共に上京してから、ずっと一人暮らしのアパートに帰宅して、靴を脱ぐなり携帯を取り出した。
ひそかに登録しておいた番号は、家庭教師派遣会社のもの。
早速面接の予約を入れて、電話を切った。
どきどきしながらその日を待って、本来の仕事でさえ手につかないくらい。
そしてやってきた面接当日、指定されたビルの最上階に降り立った瞬間、気づいた。
考えてみれば当然必要とされるものが、何も指示されなかったということに。
履歴書、経歴書、写真、印鑑、身分証明書、通帳、その他諸々。
なぜ自分が思いつきもしなかったのか驚くぐらいに、社会人としての常識まで忘れるほどに浮き足立っていたのだ。
腕時計を見ても時刻は午後の九時半を過ぎていて、予約時間の十時に間に合うように用意するなど不可能で。
だからあきらめて、扉の前で待った。
部屋に通されて、担当者に会ったらまず謝って、後日必ず持ってくると伝えようと決めていたのだ。
名前を呼ばれて中に入る頃には、緊張と不安がピークになっていた。
なのに――広い部屋には誰もいなかった。
それよりも一番驚いたのは、おおよそ面接場所らしからぬ部屋の内装に、だった。
一面ガラス張りの壁、鏡のように磨かれた大理石の床、家具はシンプルなガラステーブルと黒い皮のソファ、端にワインセラー、冷蔵庫、バーカウンター。
まるで映画のセットのような豪華な部屋を見回して、あわてて踵を返した。
これは何かの間違いだ、そうに決まってる。
咄嗟に出した結論に導かれるまま、部屋を出ようとした。
そして呼ばれてしまったのだ――私の『生徒』となる、あの男に。
「先生」
憧れてやまなかったその響きに足を止めた。
ゆっくりと振り返った私を視界に映していたのは、一人の少年。
そう表現していいのかわからないけれど、とにかくその時はその呼び方が一番しっくり来る気がした。
だって、制服を着ていたから――。
「あなた、家庭教師の面接に来たんだよね?」
気楽な調子で訊ねられて、つい頷く。それが黒い学ランとズボン、という学生としての模範的スタイルだったことで、思いついた。
「そうだけど――もしかして君、生徒さん?」
逆に質問してしまってから、ちょっと砕けすぎたかな、と反省する。
そんな私の内心は表情に出ていたらしく、少年は軽く笑った。
「そんなに緊張しなくてもいいのに。面接って言っても、単なる登録の打ち合わせみたいなものだからさ」
明るい笑い声、爽やかな茶色の瞳、やわらかそうな癖毛の頭――目に見えた全てから、彼の親しみやすさが伝わってきて。
私もつられて笑ってしまった。彼が決して質問に答えていないということに、気づく間もなく。
「ところで、担当者の方はどこにいらっしゃるの?」
白くて滑らかな若々しい肌に見惚れてしまいそうになって、目線を逸らす。
いかにも担当者を探しているのだ、という態度で周囲を見回した私に微笑んで、彼はソファを勧めた。
「とにかく座りなよ、もうすぐ来ると思うから」
まるで見知った相手のような口ぶりに、すっかり騙されたのだ。
彼はきっともう担当者と会っていて、一緒に自分の家庭教師を務める人物を見定めるべく、この場にいるのだと。
だから、言われるままに腰を下ろした。
「じゃあこれ、書いて」
当然のように向かい側に座った彼に渡された紙。
氏名や住所、年齢、といった基本情報から、志望動機に至るまでを書き込む欄があって、そこでほっと胸を撫で下ろした。
書類を指示されなかったのは向こうで用意していたからなんだ。これで、少なくとも書類の不備で落とされる心配はなくなった――そう思った。
なぜ彼がこれほど自然に書類を渡してくるのか、なんて疑問さえも沸かなかった自分が今ではおかしいとわかるのに。
その時は書類を書くことに必死で、ソファから立ち上がった彼がどこからか飲み物を持ってきたことにも気づいていなかった。
「喉、渇いてるでしょ? 飲みながら書きなよ」
テーブルに置かれたグラスを優しく示されて、私は律儀に「ありがとう」とまで言った。
揺れる茶色の液体が、てっきりただのお茶か何かだと思ったのだ。
そう言われてみれば緊張していたから、すごく喉が乾いていた。
おまけに梅雨が明けた途端、いきなり夏日になった天気にバテ気味だったのもある。
とにかくごくりと飲み干して、再び書類と向き合った、その瞬間。
視界がゆがんで、目頭を押さえた。
あれ、どうしたんだろう。
そう思った時にはもう遅くて、視界どころか体ごとぐらりと傾いで、私はソファに倒れこんでいたのだった。
異様なほど体が熱くて、目が覚めた。
さっき確かに水分を口にしたはずなのに、なぜか外を歩いてきた時よりも乾いている喉。
乾きすぎてひりひりして、痛みさえも訴える。
薄暗い視界の中、近づいてきた何かが唇から水分を送ってくれて――ごくごくと吸い付くように飲んだ。
与えられる冷たい液体を全て飲み干してからやっと、違和感に気づいた。
唇から離れない、やわらかな何か。
温かくて、ぬめぬめしたモノがそこから入り込んでくる。
ざらつき、滑り、からみつく感触。
最初は不快だったそれが、いつしか快感を与えるものに変わっていく。
喉の奥まで全て支配しそうなほどに強く這い回ったかと思えば、次の瞬間には小鳥の羽根でそっと撫でているのかと思わせるほどに優しく触れてくる。
それが誰かの舌だとわかったのは、甘い声がこぼれ落ちたからだった。
「……んっ……先生」
呼ばれた瞬間、ふわふわしていた意識が鮮明になって。
自分の上にあったものを、思い切り押した。
「ひどいな――いきなりそういうプレイ? せっかくその気になってきたのに」
まあ、そういうのも悪くないけど、なんて呟いて笑うのが、さっき会ったばかりの少年であることに驚いて。
驚きすぎて、頭の中でばらばらに弾けたままのピースがつながらない。
「な……何、これ、私……?」
ハテナばかりが飛び交って、目の前の状況が理解できない。
そんな私を正面から見つめたまま、にやりと笑う彼。綺麗な形の唇を手の甲で拭う仕草が艶かしくて、一瞬見惚れてしまった。
細身の体を包んでいるのは、さっきと変わらない学ラン。それなのにボタンは全部開けられていて、裸の胸が見えている。
「あれ、意外と驚かないんだね。それともまだ、薬が抜けてない?」
言葉が終わらないうちにどくんと脈打った自分の胸を押さえて、息を呑んだ。
着てきたスーツのジャケットも、買ったばかりの白いブラウスも確かにそこにある。
あるけれど、その役目を果たしていないことは、触れただけでわかった。
ボタンは上から三つも外れていて、ちょうど胸の谷間が見えるところで止まっている。
今度こそ声を上げかけて、また大きく音を立てた心臓に邪魔された。
「ど、どうして……」
言葉にしたいのに、舌が麻痺したかのように動かない。
息だけが荒くなって、体もどんどん熱くなって――私は喘いだ。
ぐらぐらゆがむ視界に耐えかねてふらついた体は、意外にもふかふかした何かの上に横たわった。
さっきのソファとは全く異なる布の感触、それはひどく魅力的で。
起き上がることができない私を上から見下ろした少年は、くつくつと笑った。
「そうか、抜けてないんじゃなくて……効いてきたんだ、もう一個のほうが」
囁かれた言葉に耳を疑う。どういうことなのかと問いつめるために口を開けたけれど、努力も空しく少年は楽しげに笑うだけ。
さっきから薄く漂っている甘い匂いが段々濃くなってきて、事態を把握する能力も、危険に対応する理性も何もかも奪い取られていくようだった。
なんとか目線だけをめぐらせて、ほのかな明るさを与えているのが転々と灯された赤いキャンドルであることだけはわかった。
確かに最初入ったはずの豪華な部屋ではないことも、周囲の暗さでわかる。
壁一面ガラス張りのあの場所は、輝く夜景でまぶしいほどだったからだ。
「わ、たし――家庭教師、の」
面接に来たはずだと言おうとした私の小さな声はしっかりと伝わったらしい。
少年は薄茶色の瞳を細めて、頷いて見せたのだ。
「そう、これが面接だよ? 僕の先生を探すためのね」
「何を、言って……」
声を出すことさえ苦しい。
どうして自分がこんなに息が荒いのか、なぜ起き上がれないのかもわからない。
わからないのに――彼の微笑から目が離せないのだ。
一体自分はどうなってしまったんだろう、と世界中が崩れ落ちそうな不安に襲われた瞬間、少年がはおっていた学ランを脱ぎ捨てた。
予想外に筋肉質の肩が現れて、どきりとする。胸は苦しいほどに脈打ち、視線は彼の滑らかな肌に吸い寄せられる。
同時にそんな自分が信じられなかった。
「ねえ、僕の先生になってよ」
天使のような笑顔で、彼は言う。
あれほど聞きたいと願った言葉――夢見たはずの、生徒の笑顔。
ゆがんだ状況であるはずなのに、私の心は浮き上がっていた。
「教えてほしいのは……ただ一つだけ」
そう囁かれた声で、びくりと震える。
――聞かせてよ、あなたの本音を。
続いた言葉が本当に彼の唇から紡がれたものなのか、そうじゃないのかも確かじゃないくらいに体は熱くて。
引きずられるように頷いていた。
愛らしく笑った彼がそっと体を近づけて、私の体を捕らえるように両手を置いた。
そのまま降りてくるのは、やわらかそうな唇。
ああ、あれに口付けられていたんだ――そう考えた瞬間、なぜか体中が燃えるように火照った。
一瞬だけちらりと私を見やった瞳が、ゆっくりと細められて。
声が、聞こえた。
捕らえる。
捕らわれる。
どっちがいい――?
決して彼は唇を動かしてはいないのに、はっきりと脳裏に響いた質問。
その内容を吟味する理性も、既に失われていた。
あきらかに自分より年下の少年、いや、そう呼ぶことさえためらわれる彼は今、確かに一人の男だった。
にっこりと微笑んだ瞳が、長い睫がふせられて、あたたかい感触が私の胸に舞い降りた。
「……んっ」
思わず声を上げてしまったのは、谷間を舐め上げられたから。
何も考えられない。
何も言えない。
体はどんどん熱くなり、また、重くなっていく。
それなのに感覚だけは軽く、高く、私を持ち上げていった。
「さあ、教えてよ」
それが先ほどの質問への答えを催促するものだいうことすら、もはやわからない。
ぎりぎりのところで最後の抵抗を試みた手足も、震えるだけでベッドに落ちた。
がっちりと硬い肩、白くなめらかな細身の体、優しすぎるのに、強い手。
色素の薄い髪と瞳、甘い体臭、何かに飢えているような――狂おしい眼差し。
全てに、私はそそられていたのだ。
「僕を――捕らえたい? それとも捕らわれたい?」
あなたの答えは、と囁かれたその瞬間、彼の背中に腕を回していた。
きつくきつく、自分の力とは思えないほどに強く抱きしめて、それと同時に抱きしめられた。
睫毛が触れ合いそうなほど近い距離で、私はかすれた声で告げていた。
数秒、瞳を見開いていた彼が、ゆっくりと満足げな笑みを浮かべていく。
ぺろり、と自らの唇を舐める仕草が、とてつもなく色っぽかった。
自分の答えが正しかったのか、それとも間違っていたのかなんてわからない。
そもそも、この問いに答えてしまったことが誤った選択だったのだろう。
でも私は答えてしまった。
そして、恐ろしいことに――後悔、という当然な心の動きさえも奪われてしまったのだった。
*
乱れた息が同じリズムを刻んで、そして静かにおさまっていく。
それまでにどのくらいの時間がかかったのかもわからないけれど、気がつけば彼の腕が腰にからみついた状態で目が覚めた。
汗がひいた肌にシルクのシーツが心地よくて、寝返りを打つ。
終わった後も離れられないなんて――自分が持ち合わせている、数少ない経験上ではなかった不思議な気持ちだった。
自分の体のくぼんだ部分に、ぴったりと肌を合わせてくる彼が可愛らしくて、わざとそのまま寝顔を見つめていた。
ふと開いた瞼から、薄茶色の瞳が姿を見せる。
「起きてたの、先生」
今日も私を呼んでくれる唯一の生徒に、私は微笑んだ。
当初の予定通り、仕事を続けながら『家庭教師』のアルバイトをするという生活は、想像よりもハードなものだったけれど、授業がある日は仕事も捗るくらいだった。
週二回、二時間。
彼と過ごすこの時間の全てが、私の授業。
本当のところは、この年下の少年に教えられることのほうが多いという状態で――いささか情けなかったりもする。
でもベッドの上で主導権を握ることは嫌いじゃないと、彼は笑ってくれた。
どちらが年上なんだかわからない状況で、そもそもそんなことが大事なんじゃないとわかってきた。
「はい、どうぞ」
ブラックのコーヒーが湯気を立てて、サイドテーブルに置かれる。
自分用にはちゃっかりとホットミルク――しかも蜂蜜入りなことを私は知ってる――を入れて飲んでいる彼が、今更ながら謎だった。
こんなに子供な笑顔で私を見るくせに、一体今までどんな人生を歩んできたのか知りたくなるくらい、大人な目で私を翻弄する。
喘いで、泣いて、叫んで――ぼろぼろになってしまう自分が恥ずかしくてたまらないのに、彼に撫でられただけでまた来てしまう。
「ねえ……この授業、いつまで続けるつもり?」
ふと怖くなって訊ねた質問。
私のことは、以前書かされた紙の内容だけじゃなく、色々知っているらしい彼。
でも反対に自分のことは何一つ語らない。
本当にただの『生徒』であるとしか言ってくれない少年は、今日も小首を傾げて微笑んだ。
「さあ、どうかな――学ぶ熱意を助けてくれる、愛ある指導者を待ってますって言ったよね? 僕の熱意がなくなるまで、って言ったら納得してくれる?」
求人広告の文句まで持ち出して、堂々と笑う彼にため息を吐き出す。
見事な詐欺もいいところだと言いかけて、自分に責める資格などないと口をつぐんだ。
いくらだまし討ちみたいな形だったとはいっても、頷いたのは自分。
薬を使われていたと知っても、それほど驚きはしなかった。
驚いたのは、自分の気持ちにだ。
「先生」と何度も呼んで抱きしめられて、また抱きしめて――こんな不道徳な行為をやめることができない。
自分の立場と年齢を考えたら当然足を止めるべき断崖から、ふわりと蝶のように飛んでしまう。
それは全て、差し伸べられた手をとってしまったから。
「だめ……まだ帰らないでよ」
下着をつけようとした手を止められて、背中に唇をつけられる。
求めてくる手つきは必死で、まるで溺れかけた子供がしがみついてくるみたいだ。
あんなに慣れた顔で私を味わうくせに、こうして引きとめてくる顔は本当に幼くて――。
どちらが本当の彼なのか、わからない。
わからないから、確信できた。
あの時の、自分の答えが間違っていないことを。
世間一般の模範とはもちろん異なってはいても、あれこそ彼が求めていた答えなのだと。
捕らえる。
捕らわれる。
どっちがいい?
そんなの、決まっている。
「……どっちもよ」
一人呟いて、しがみついてくる彼を抱きしめる。
その顔を上向かせ、強引に引き寄せて唇を合わせる仕草は、いつもの真逆。
自分の長い髪が邪魔で、はねのける。
彼がするように、深く舌を差し入れて味わう感触はどうしようもなく魅力的。
天に昇らされるあの時と、同じくらいの快感。
捕らえる。
捕らわれる。
そのどちらもを選んでしまった私は、きっと不良教師なんだろう。
でもこの響きは、たまらないほど体の奥まで疼かせる。
「ああ……先生」
呼ばれた瞬間、のけぞった。
薄明かりに目が慣れて、いつの間にかブラインドも開けられていたことに気づく。
きらきらと輝く夜景が見渡せる、一面ガラス張りの壁。
黒い皮のソファ、ガラステーブル。
それはそのまま、初めて来た時と同じあの部屋。
まさかガラス張りの夜景が丸ごと鏡で、その向こうにもう一つ同じ空間があったことなんて知らなかったから。
初めて知ったあの夜は驚いたけれど、今ではもう慣れてしまった。
こちらの空間には、ベッドだけが一つ中央に置かれている。
明るい夜景に見られながらの行為は、ひどく興奮を誘った。
「先、生……っ」
好きだよ、と囁かれて、頷く。
私もよ、と息を荒げる。
そのどれほどが本気なのか、どちらにもわからない。
けれど、それでいいのだ、と思った。
捕らえるか、捕らわれるか。
どちらが勝つのか、負けるのか。
そんなゲームを楽しむよりも、過程を味わえばいい。
身も心も投げ打って、賭けてみる。
人生に待ち受けていた思いがけないルーレットは、緊張感を与えてくれた。
胸元に寄せられた頭を抱え込んで、くしゃりとやわらかな髪をかき乱す。
名前も知らない、私の生徒。
呼ぶ代わりに、爪を立てた。
*
「ねえ、あれ佐藤さんだよね――?」
「なんか、最近綺麗になった感じしない? 前は全然地味だったのに」
給湯室を通り過ぎる一瞬に聞こえた会話。
エレベーターのボタンを押しながら、何気なく振り向いた私と目があって、彼女たちはあわてたように愛想笑いを浮かべる。
後ろで留めた髪からこぼれ落ちた一筋を耳にかけ、会釈をした。
「今から帰り? お疲れ様」
部署は違うとはいえ、同じ事務職だから時間は大して変わらない。
でも笑顔で労ってくれた彼女たちに、私も微笑んだ。
「あ、佐藤さん。今日飲み会があるんだけど……よかったら来ない?」
「いや、ぜひ来てよ!」
ちょうど歩いてきた営業の男性社員たちに声をかけられて、驚く。
以前は私なんて目にもかけなかった彼らが、最近よくちらちら見ていることには気づいていたけれど、わざとらしく瞳を見張った。
「あの、すみません……ちょっとこれからアルバイトがあって」
うちの会社は副業を禁止していないから、堂々と断る。
残念だな、とかあれこれ並べ立ててくる社員たちのそばで、事務の女の子たちがお互いに目配せしていることにも気づいていた。
「アルバイトって何してるの?」
あきらめきれなさそうに訊ねられて、一瞬どきりとする。
興味本位の表情を隠しきれていない女の子たちの手前もあって、真面目な顔を崩さずに答えた。
「ええ、実は――家庭教師を」
そうなんだ、とどこか納得した顔で頷かれ、似合うよね、とも付け加えられる。
曖昧に微笑んで、私はもう一度会釈した。
カツカツとヒールの音が鳴るホールを歩いて、会社を出る。
ちょうどぶつかった背の低い人影に驚いて、つまずいてしまった。
白い爽やかな制服についどきっとした私は、分厚い眼鏡の顔と目が合った。
猫背の少年がおどおどした態度でお辞儀して、ぶつかったことを小声で謝る。
ヒールの靴が脱げかけて体勢を崩した私は、力強い手の平に支えられた。
瞳さえも見えないような眼鏡と長い前髪に阻まれて顔もわからなかったけれど、その一瞬の体温に眉を寄せた。
何かを言いかけた私の手をあっという間に離して、丁寧にまた頭を下げて彼は去っていく。
その背格好、薄い髪と白い肌。
何よりも手の平の感触――。
「まさか、ね」
あり得ないことだと笑って、もう一度歩き出す。
再び顔を上げた頃にはその少年の姿も見えなくなっていた。
腕時計を見る。
まだ、夜の七時。
これから始まる今日の授業までは、待ち遠しいくらいに長かった。
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